第六章 届かない音に名前をつけるなら
陽翔は奏に「自分で作った曲を聴いてほしい」と伝え、奏を自宅へ招く。
ぎこちなくも真っ直ぐに奏を想って作られた音は、未熟ながらもあたたかく、奏の心に深く響く。
陽翔はその曲について、「イメージした人がいる」と話し始める。
そして“その人”の特徴はまさに奏そのものだった。
──でも陽翔は、最後まで名前を出さなかった。
奏もまた、想いに気づきながら、それを言葉にはできなかった。
その帰り道、偶然出会った高山が、奏に自分の気持ちを告げる。
陽翔とは違い、真正面から「好き」と言ってくれた高山。
けれど奏は、誰の言葉にも返事をできないまま、その場に立ち尽くす。
陽翔の音、高山の言葉、そして自分の沈黙。
“好き”という感情に名前をつけることすらできないまま、
奏の胸の中では、静かに、でも確実に何かが変わり始めていた。
陽翔の家に再び訪れた日。
部屋には前よりも整理された機材と、録音用のマイク、そして陽翔が自分で買ったという小さなMIDIキーボードが置かれていた。
「お前の影響、でかすぎてさ。気づいたらこうなってた」
そう言って笑う陽翔の声は、前より少しだけ照れていた。
パソコンを操作しながら、陽翔が言った。
「じゃあ、ちょっと恥ずかしいけど……流すね」
デモ音源が再生される。
そう言って笑う陽翔の声は、前より少しだけ照れていた。
ギターのアルペジオから始まり、ゆっくりと静かなピアノが重なる。
旋律はまだ不器用で、リズムもほんの少し甘い。
でもその音には、確かに“陽翔らしさ”があった。
“まっすぐで、不器用で、でも誰かに届けたくて仕方がない”——
そんな、音だった。
「……すごい。ちゃんと曲になってる」
そう言うと、陽翔は顔を赤くして、ソファに倒れ込んだ。
「うわー、めっちゃ恥ずかしい。人に聴かせるもんじゃねーなこれ」
「そんなことないよ。伝わった。すごく、あたたかかった」
陽翔は、天井を見つめたままぼそっと言った。
「……この曲、イメージしてた人がいるんだ」
その一言に、胸が跳ねた。
まさか。まさか。そんなの、期待してはいけないのに——
「そいつ、いつも“音”のこと考えててさ。ピアノの前に座るとき、すごく真剣で。
でも普段は、ちょっと不器用で、変なとこで遠慮して。……なのに、めちゃくちゃ優しいんだよ」
僕の心臓が、息を詰めるみたいに鳴った。
「俺さ、そいつの作る音が、すげぇ好きで。俺もそんな風に誰かの特別になれたらって思ったんだよな」
僕は、何も言えなかった。
自分のことだって、気づいてしまったから。
陽翔が今、目の前にいる僕のことを話してるって、わかってしまったから。
でも、言葉にはできなかった。
「俺も、お前が好きだ」なんて。
言ってしまえば、すべてが変わってしまう気がした。
陽翔のこの優しさも、この音も、この“曖昧な距離”も、
全部、壊れてしまいそうで。
「……その人、きっと嬉しいと思うよ」
やっと絞り出せた言葉は、それだけだった。
陽翔は、僕の言葉の意味に気づいているのかいないのか、
ただ「そっか」と笑って、頭をかいた。
その笑顔に、僕はまた、何も言えなくなった。
その日の帰り道、また高山に会った。
彼は制服のポケットに手を突っ込んで、黙って煙草の箱をいじっていた(火はつけてなかった)。
「あ。奏」
「……偶然だね」
「陽翔ん家、行ってたんだろ?」
僕は驚いた。
「なんで……知ってるの」
「SNS。陽翔が上げてた。『奏に曲聴いてもらった!』って」
「ああ……そっか」
高山は、ゆっくりと僕の顔を見た。
その目に、笑みはなかった。
その沈黙に僕は耐えきれなかった。
「煙草、体に良くないよ」
「あぁ...そうだな。」
彼は今にも泣きそうな顔で、僕の顔を見つめ続けた。
「なぁ、奏」
「ん?」
「お前、陽翔のこと、好きなんだろ」
その言葉に、時間が止まったような気がした。
「別に良いんだ。言えよ、ちゃんと」
「……なんでそんなこと、聞くの」
「—好きなんだよ。奏のことが」
夕暮れの光が、校舎のガラスに反射していた。
そこに映る僕の顔は、言葉をなくしたままだった。
高山は笑わなかった。
ただ、静かに、まっすぐに、言葉だけを置いていった。
「言わないと絶対後悔すると思ってさ」
そして彼は、背を向けて歩き出す。
僕はその背中を、呼び止めることもできなかった。
“好き”という言葉が、こんなにも重く響くとは思わなかった。
陽翔の音も。
高山の告白も。
全部、僕の中に溢れてくる。──この感情に、名前をつけるなら。
それはやっぱり、ラブソングにはならない。
でも、きっと忘れられない旋律になる。
今、胸の奥で鳴っているこの音だけが、
僕が選び取った、たった一つの“答え”なのかもしれない。