静なる圧――酒鬼剣聖との邂逅
――山が、息をしている。
その感覚に気づいたのは、焔の峰の中腹へ差しかかったときだった。
木々のざわめきも、鳥の声も消え、霧が音を吸い取るように沈黙している。
代わりに聞こえるのは、心臓の鼓動だけ。
歩くたびに、足の裏で土が「呼吸」している気がした。
「……空気が、重い」
クラリスが呟く。
剣士としての勘が、何かを感じ取っているのだろう。
彼女の横顔には緊張よりも、純粋な高揚が浮かんでいた。
「泡が……潰れない」
ミスティアの言葉は、比喩でも詩でもなかった。
彼女が操る泡沫魔法は周囲の気圧や湿度に影響されやすい。
だが今、霧の中でも泡が弾けない――それは、魔力の流れが異様に“安定”している証拠だ。
「……まるで、ここ全体が“結界”みたい」
私は腰の瓢箪――《酔楽の酒葬》を軽く叩く。
中の酒が、びくりと反応した気がした。
◆
やがて、山の深奥に“庵”が見えた。
石灯籠が並び、苔むした階段が上へ続いている。
その頂に、白木造りの小さな庵――そして、男がひとり。
――《酒鬼剣聖・ヤシロ》。
彼は何も言わなかった。
ただ、静かにこちらを見ていた。
視線が刃のように突き刺さる。
まっすぐに見つめられるだけで、胸の奥の“甘え”が削がれていく。
「……ヤシロ」
クラリスが息を飲む。
「“強い”というより“揺るがない”ですね」
ミスティアが分析めいた声で言ったが、額には薄く汗がにじんでいる。
それだけの存在感だった。
◆
風が止んだ。
そして、ヤシロが口を開く。
「――その瓢箪の中身。見せてみろ」
私は一瞬、息を呑んだ。
見抜かれている。
異世界の酒だと、言わずとも。
「……気づいてたんだ」
「その香りは、八洲にはない。“外の酒”だ」
ヤシロの声は静かだったが、ひとつひとつの音が脳に突き刺さる。
言葉の刀で“意識”を斬られているような感覚だ。
「酒とは、血のようなものだ。外の者の血が、この地の酒を濁らせる。それでも――なお飲みたいというなら」
彼はゆっくりと腰の刀に手をかけた。
「剣で語れ。“酒”の覚悟を、見せてみろ」
その瞬間、空気が裂けた。
◆
音がない。
ただ、空気が震える。
ヤシロはまだ抜刀していない。
だが、その“構え”だけで全身が硬直する。
――これが、“斬る前に勝つ”。
理解するより先に、身体が戦慄していた。
呼吸すら奪われる。
視界の中心に立つヤシロは、時の流れから切り離されたように静止していた。
「伊吹、下がって! 今、動いたら――」
クラリスの警告と同時に、空間が“鳴った”。
金属がぶつかる音が、遅れて響く。
クラリスの閃律剣・フェリシアが、ヤシロの八洲刀に受け止められていた。
剣速が見えなかった。
ヤシロの動作は、ただ一歩踏み出しただけ。
だが、その一歩が“呼吸”を支配する。
「……速さではない、“間”ですか」
ミスティアが震える声で呟く。
ヤシロは静かに刃を戻し、わずかに口元を緩めた。
「悪くない。だが、お前たちの剣も魔も、“心”が定まっていない。焦燥、警戒、興奮――そのどれもが、“斬られる前に負ける”」
「それは理屈じゃない!」
クラリスが踏み込む。
今度は“音”を纏わせた。
《閃律剣・ラピス》が青白く光る。
だが――。
“音が消えた”。
斬撃が届く瞬間、ヤシロの刀が逆光のようにわずかに傾いた。
それだけで、クラリスの剣先が逸れ、空を切る。
同時に、頬をかすめる冷たい線――斬られたのは、こちらの“集中”だった。
「クラリス!!」
「大丈夫……でも、まったく反応できなかった……」
◆
「《泡沫魔法・零式――エアボム》!」
ミスティアの声とともに、圧縮した炭酸が弾ける。
空気ごと爆ぜる泡が、ヤシロの足元を襲った。
煙と音。
視界を遮る一瞬。
「――《酒技・火酔爆》!!」
私は瓢箪を振りかぶり、炎と酒気を混ぜて放つ。
轟音とともに火柱が上がる。
しかし――そこに、誰もいなかった。
「なっ……!?」
次の瞬間、背後に声が落ちる。
「悪くはない。だが、爆ぜるだけでは“酔い”は届かない」
ヤシロの刃が、私の金棒《酔鬼ノ号哭》とぶつかる。
火花が散る。
そのわずかの間に、目が合った。
静かだった。
その瞳は、“人を斬る覚悟”を超えていた。
「伊吹、退いて!」
クラリスが割り込む。
《閃律剣・セレスタ》の回転斬撃が放たれる。
ミスティアも《泡沫魔法・拘束:カーボネットチェイン》で補助。
無数の泡の鎖がヤシロの動きを封じようと伸びる。
だがヤシロは、わずかに息を吐いただけで全てを断ち切った。
剣が走ったわけではない。
“呼吸”そのものが刃だった。
◆
私は息を荒げながら、金棒を地面に突き立てる。
「はぁ……っ、これが……八洲剣術……!」
「斬るより先に、“斬られてる”感じ……」
ミスティアが震えた声で言う。
「そういうことだ」
ヤシロが静かに刀を下ろした。
霧がゆっくりと漂い始める。
「お前たちの力は悪くない。だが、剣も魔も酒も、形ではなく“意”だ。
飲むとき、斬るとき、放つとき――“自分が何を為すためにそれをするのか”。
その意が定まらぬ者に、焼酎は渡せぬ」
「……つまり、“心を酔わせろ”ってことか?」
私が息を整えながら言うと、ヤシロの口元がわずかに笑った。
「――そうだ。“心”で酔え」
そう言い残し、ヤシロは庵の奥へと消えていった。
残されたのは、静寂と、焦げた土の匂い。
そして、全身を包む圧倒的な敗北感だった。
◆
「……完敗、だね」
わたしの言葉に、クラリスが唇を噛む。
「でも、あの人――剣を振るってるとき、笑ってた」
「ええ。あれは“酔ってる”人の顔でした」
ミスティアが頷く。
「戦いの中で、酔ってる……。
あれが、“本物の酒鬼”ってやつか」
私は天を見上げた。
霧の向こうで、赤く染まった陽が揺れている。
「いいね……面白くなってきた。
――次は、わたしたちが“心で酔う”番だ」
焔の峰の風が、三人の頬を撫でた。
その風の奥に、まだ聞こえぬ“再戦の盃”の音が、確かに響いていた。




