波間に蠢く影
船の舷側を叩く波音が、どこか心地よいリズムを刻んでいた。
港町アクアレーンを出て数刻。
船乗りたちの歌声とオールの軋みが混じり、初めての航海に胸を躍らせる。
「潮風……! 海の上の空気って、なんでこうもおいしいんだ!」
わたしはすでにジョッキを掲げる気分で、甲板の上で大の字になった。
「伊吹、浮かれすぎです。まだ出航したばかりでしょう」
クラリスが呆れ顔で腰に手を当てる。
剣士らしく凛々しいが、足取りは船の揺れに慣れていないのかぎこちない。
一方、ミスティアは水色の髪を潮風に揺らしながら、観察日誌にさらさらと筆を走らせていた。
「波の周期……風の速度……なるほど、これが“外洋”の環境……」
「……ミスティア、研究旅行じゃないんだから」
そんな掛け合いをしていた、そのとき――。
船体がぐらりと大きく揺れた。船員の一人が叫ぶ。
「海魔だぁぁ!!」
海面から突き出したのは、巨大な触腕だった。
ぬらぬらとした黒紫の皮膚が夕陽を反射し、吸盤の内側に鋭いトゲがびっしりと生えている。
水面下からはさらに二本、三本と触腕が伸び上がり、船を締め潰そうとしていた。
「なっ……でかすぎだろ!!」
わたしは思わず身を乗り出した。船員たちは悲鳴を上げ、船長バルゴの怒号が飛ぶ。
「怯むなぁ! 舵を守れ、オールを構えろ!」
だが、触腕が甲板に叩きつけられ、木片が飛び散る。
わたしたちは即座に武器を構えた。
◆
「《泡沫魔法・防膜:ソーダシェル》!」
ミスティアの声が響き、甲板全体に透明な泡の膜が広がった。触腕が叩きつけられても衝撃は和らぎ、船体の崩壊を辛うじて防ぐ。
「助かった! ――よし、こっちも行くぞ!」
わたしは腰の瓢箪《酔楽の酒葬》を掴み、口を開いた。
迸るのは琥珀色の液体。
喉に流し込んだ瞬間、全身に熱が走る。
「《魔力上昇・トラピストフォーム》!」
フルーティで強いビールの加護が、ミスティアの魔法陣を膨張させる。彼女が詠唱を続けると、泡が爆発的に増幅した。
「《泡沫魔法・穿突:スパークリングスピア》!」
水面を突き破るように、炭酸の槍が触腕を貫いた。黒紫の肉を切り裂き、海水が赤黒く染まる。
「おおおおっ! いいぞ、ミスティア!」
「……伊吹さんの酒の援護があれば、これくらいは」
彼女が小さく呟いた瞬間、別の触腕が振り下ろされる。
そこにクラリスが駆け込んだ。
「《閃律剣・セレスタ》!」
剣閃が縦に奔り、音の波紋が触腕を裂く。鋭い旋律が空気を震わせ、切断面から黒い体液が飛び散った。
「クラリス、ナイス!」
「まだ終わってない!」
海魔は甲高い咆哮を上げ、ついに海面から巨体を現した。
巨大な烏賊にも似た姿。無数の目がぎょろぎょろと光り、船を睨む。
「ひぃっ……!」
船員たちが青ざめるが、船長バルゴが吠えた。
「腰を抜かすな! 嬢ちゃんたちが前に立ってる! 俺たちは舵を守れ!」
◆
「なら、仕上げだ!」
わたしは瓢箪を逆さに振りかぶり、酒を噴射した。
「《酒技・酔気噴射》!」
勢いよく飛び散った酒が海魔の複眼を直撃する。
異世界人や魔物にとっては毒。
瞬時にただれ、海魔は悲鳴をあげてのたうった。
「今よ!」
クラリスが跳び、蒼光を纏う斬撃を振り下ろす。
「《閃律剣・クロッカ》!」
十字の閃光が走り、海魔の巨体を切り裂いた。
「《泡沫魔法・零式:エアボム》!」
ミスティアが追撃し、泡の爆発が断面を吹き飛ばす。
「――トドメは、あたしだぁぁ!」
わたしは酒気に魔力を込め、金棒《酔鬼ノ号哭》を振り下ろす。
「《酒技・火酔爆》!!」
炎を纏った一撃が海魔の頭部を砕き、轟音と共に水柱が上がった。
海魔の絶叫が消え、巨体は海中へ沈んでいく。
◆
静寂。
次の瞬間、船員たちから大歓声が巻き起こった。
「やったぞぉぉ!!」
「海魔が沈んだ!!」
わたしは酔鬼ノ号哭を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「やっぱり、酒は最強!」
「……あなたじゃなくて、お酒と仲間のおかげでしょう」
クラリスが冷静に返す。
「でも、本当に助かりました」
ミスティアが小さく微笑む。
沈みゆく夕陽に染まる水平線を眺めながら、わたしたちは次なる航海を見据えた。




