八洲の影と、火霊の囁き
泡鳴区の市場は、昼時の熱気に包まれていた。
炭火で肉を炙る匂い、果実を並べる甘酸っぱい香り、そしてどこからか漂う麦芽の香ばしさ。
喧噪に押されながら、わたしたちは食材の買い出しと情報収集に繰り出していた。
「……うん。やっぱりここは胃袋が試される」
「伊吹、目が完全に“飲む”モードなのよ。買い物を忘れないで」
「心配しなくても大丈夫。買い物リストは――飲み物欄でいっぱいだから!」
「……やっぱり信用できない」
クラリスが冷ややかな視線を寄越す。
ミスティアは苦笑しながらも、調味料屋の棚をじっと眺めていた。
と、その時。
市場の一角から聞き覚えのある豪快な笑い声が響いた。
「はっはっはっ! もっと泡を立てろ、そうだ、それが“命の泡”ってやつだ!」
声の主を見つけて、わたしは思わず笑みを浮かべた。
赤い髭を胸まで垂らした屈強な男――鉱山の酒職人、グラン=バルムだ。
彼は屋台の主に指示を飛ばしながら、小樽を担いでいた。
「おおっ、グランじゃん!」
わたしが手を振ると、グランが目を細め、口元を吊り上げる。
「ほう、伊吹じゃねぇか! まだ生きてやがったか!」
「お酒以外で死ぬわけないだろ!」
「むしろ酒で死にそうな顔してるけどね」
クラリスがぼそり。
「……否定はできませんね」
ミスティアが小声で添える。
グランは近寄ってきて、ドシンと足を踏み鳴らした。
「で、今日は何しに来た? また酒探しか?」
「うん、実は……“焼酎”って知ってる?」
その言葉に、グランの眉がぴくりと動いた。
「……焼酎、だと」
低く呟き、赤髭を撫でながらしばし考え込む。
「八洲の国の旅商人が昔持ち込んでたな。一度だけ飲んだことがある」
「本当に!? どんなお酒だった!?」
「透明なのに強烈でな。香りは軽いのに、喉を通った途端、腹の底が灼けるように熱くなる……。ただの酒じゃねぇ、魂ごと燃やされる感じだったな」
その語りに、わたしの背筋がぞくりと震える。
「……それ、それだ! 絶対欲しい!」
「だがな、今じゃ滅多に市場に流れてこねぇ。八洲からの輸入ルートを辿れば、手に入るかもしれんが」
グランは樽を叩きながら言う。
「輸入ルート……なるほど。追えば、飲める!」
「伊吹、飲む前提で話進めるのやめて」
「でも、焼酎だよクラリス! チューハイだよ!」
「チューハイって何だ?」
グランが首をかしげる。
「最高の文化だよ!」
クラリスがこめかみを押さえ、ミスティアは「……やっぱり蒸留酒の一種ですね」と呟いた。
そこで、わたしはふと思い出した。
「そうだ、“火霊の雫”ってもう飲める?」
「ほぉ……覚えていた」
グランの瞳が一瞬鋭く光る。
「当たり前だ! で、あるの? 飲めるの?」
「あるにはあるが……まだ樽を割る時期じゃねぇ。特別な祭事の時だけ開ける。今飲ませろなんざ百年早ぇ」
「ちょっとでいいから!」
「ばかやろう!」
グランの大喝が市場に響き、屋台の客が振り返る。
「伊吹、声を抑えて!」
クラリスが焦って小声で突っ込む。
「……伊吹さんの厚かましさは相変わらずですね」
ミスティアも苦笑していた。
グランは豪快に笑い飛ばす。
「ははは! まあ、飲みたきゃ祭りのときに来りゃいい。その代わり、魂ごと持ってかれる覚悟をしとけ」
「上等だ! 魂なんか、酒で燃やすためにある!」
「その意気だ! 酒飲みは執念深いくらいが丁度いい!」
わたしとグランが笑い合う横で、クラリスは肩を落とし、ミスティアは呆れと諦めの入り混じった目でわたしたちを見ていた。
――焼酎、八洲の国、火霊の雫。
市場の喧騒の中で、新しい冒険の火種がまた一つ、胸に点いた。




