蒼森の幻影④ ―果実の贈り物―
戦いの余韻が静かに森へと溶けていった。
蒼森獣の咆哮はもうなく、泉の水面は鏡のように澄んでいる。
わたしは膝に手をつき、荒い息を整えながら泉の奥を見下ろした。
――あった。
水底で淡い蒼光を放ちながら揺れている、丸い影。
「……見える?」
声をかけると、クラリスとミスティアも泉に身を寄せた。
「ええ。……まるで宝石のようね」
クラリスの声音には、剣士らしい緊張と、少女らしい高揚が同居していた。
「光……ではありません。あれは実体を持っています」
ミスティアが杖を掲げ、泡沫の光を落とす。
蒼光が反射し、まるで青い心臓が水底で脈打っているように見えた。
泉の水に手を入れると、予想外に温かい。
森の幻覚を生み出していた余韻なのか、指先がじんじんする。
わたしはごくりと唾を飲み込んだ。
「……行くよ」
腰まで水に浸かり、慎重に進む。
靴越しに伝わる水草の感触は生き物みたいで気持ち悪い。
やがて両手で抱え込むほどの果実が、わたしの前にあった。
薄い青の皮が透き通り、内部で淡い光がゆらめいている。
表面からは芳醇な香りが立ち昇り――その瞬間、頭が軽く痺れた。
「……っ、酒……?」
匂いだけで酔い。
果実から染み出す甘やかな香気は、葡萄とも、林檎とも違う。
もっと原始的で、もっと強烈。
「伊吹!」
クラリスの声。
「大丈夫? 顔が真っ赤よ」
「平気……多分」
必死に笑みを作り、両手で果実を抱き上げる。
水滴が光を反射し、腕の中のそれはまるで“森の心臓”だった。
「――これが、幻の果実」
クラリスとミスティアの瞳が同時に輝いた。
岸に戻ったわたしは果実をそっと布で包み、荷袋に収める。
「……信じられない。あんなの、本当に存在するんだ」
クラリスは思わず息を漏らした。
戦いでは勇ましい彼女も、今はただ一人の少女に戻っていた。
「成分はまだわかりませんが……果実そのものが発酵を帯びています。おそらく、この森が長い年月をかけて守り続けてきた理由は、そこにあるのでしょう」
ミスティアの声は学者のように冷静だったが、その指先はわずかに震えていた。
わたしは荷袋を撫でながら、自然と笑っていた。
「これだ。ノアが言ってた“幻の果実”。これを使えば――」
想像するだけで、腹が鳴った。
どんな料理になる? どんな酒に合う?
いや、もしかしたらこれ自体が“酒”に変わるのかもしれない。
「……伊吹、目がギラついてる」
「否定できない」
「全く……懲りないわね」
クラリスは呆れたように笑うが、その目尻は楽しそうに緩んでいた。
「……この果実と酒。組み合わせれば、きっと――」
ミスティアが小さく呟く。
「料理と酒の究極の宴を、作り出せる」
三人で顔を見合わせた。
汗と泥と酒臭にまみれた顔なのに、不思議と誇らしかった。
「よし。帰ろう」
わたしは荷袋を背負い直す。
「ノアがこれをどう料理するか、楽しみにしてやがれ」
蒼森の風は穏やかに吹き、葉を揺らしていた。
まるで長い守護の役目を終え、果実を託した森が微笑んでいるかのように。
――こうしてわたしたちは幻の果実を手に入れた。
そして新たな宴、新たな物語への期待を胸に、泡鳴区への帰路についた。




