蒼森の幻影①
蒼森――その名の通り、森全体が青白い靄に包まれていた。
朝日を浴びているはずなのに、枝葉の隙間から射し込む光は鈍く変色し、まるで深海に沈んだような色合いをしている。
「……空気が重いわね」
クラリスが剣の柄に指をかけたまま、警戒を解かない。
「魔力が濃すぎて、風が酔ってるみたいです」
ミスティアの杖先に浮かぶ泡沫の光が、もやに照らされて微かに揺れる。
わたしは深呼吸してみた。……鼻腔に広がったのは草木の匂いだけじゃない。
どこか、酒精を薄めて霧に混ぜたような甘苦さ。舌先がじんわり痺れ、頭がふわりと揺れる。
「……あー。やば。もう酔ってきた」
「まだ一歩目よ!? 瓢箪開けたんじゃないんでしょうね」
「開けてないって! 空気が勝手に酒みたいなんだよ」
クラリスが呆れ顔でため息をつき、ミスティアは冷静に付け加える。
「噂は本当のようですね。“空気だけで酔う森”。注意してください。幻覚も見えるはずです」
その直後だった。
「ねえ……あれ」
視界の奥で揺れるのは――虹色の果実を実らせた樹。
虹果の実……!? そう思って駆け寄ろうとした瞬間、クラリスが腕を掴んだ。
「伊吹、待って!」
果実の樹はふっと掻き消え、ただの岩壁に変わった。
冷や汗が背筋を伝う。
「……幻覚、ってこれか……」
以降も、揺れる光、遠くで聞こえる笑い声、子供の影……幻惑は次々と現れては消えた。
わたしの心臓は早鐘を打ち、酔いと混じって妙に笑いたくなる。
「伊吹、真顔! 変な笑い方しない!」
「わ、わかってるけど……! 頭が勝手にお祭りしてる!」
必死に歩調を合わせ、三人は森の奥へと進んだ。
やがて辿り着いたのは、森の中心にぽっかりと開いた空間。
地面からは蒼い靄が吹き上がり、中央には水鏡のような泉が広がっている。
その泉の縁に――いた。
影。
狼の形をしているが、毛皮は透け、全身が蒼光を帯びている。
瞳だけがぎらりと黄金に光り、牙の間からは泡のような蒸気が立ちのぼっていた。
「……あれが、蒼森獣」
ミスティアの声が震える。
「虹果の実を守る番犬、ってわけか」
わたしは背中から《酔鬼ノ号哭》を引き抜き、肩に担いだ。
蒼森獣は静かにこちらを見据え――次の瞬間、空気を裂いて消えた。
「速――!」
クラリスが叫ぶより早く、青い影が背後から迫る。
反射的に金棒を振る。
ガァンッと火花が散り、狼の顎とぶつかる。
その力は小柄な体格からは想像できないほど重く、わたしの足が地面にめり込む。
「ぐっ……くそ、硬ぇ!」
クラリスが横薙ぎに斬り込むが、蒼光の毛並みに弾かれた。
「なっ……切り込めない!?」
「伊吹さん、下がってください!」
ミスティアの杖先から《泡沫魔法・穿突:スパークリングスピア》が放たれる。
炭酸の矢が狼を貫こうとするが――蒼森獣は一瞬で霧のように消え、次の瞬間には別の位置に現れた。
「瞬間移動……!? いや、幻影か!?」
頭がふらつく。
気づけば同じ狼が三体、四体と視界を埋め尽くしている。
どれが本物かわからない。
これが……蒼森獣。
「……まずいな」
わたしは舌打ちし、瓢箪を掴む。
「使うしかねぇ。酒の力だ!」
喉へ流し込むのは辛口の白ワイン。鋭い酸味が舌を刺し、脳の靄を振り払う。
「《直感強化・ブランフォーム》!」
視界が澄み渡り、幻影の揺らぎが見えてきた。
一体だけ、地面に影を落としている――!
「クラリス、左前! 本物はあれ!」
「任せて!」
青い閃光がフェリシアから奔り、蒼森獣の毛並みを裂いた。
獣が初めて低く唸り声をあげる。
血ではなく蒼光が飛び散り、泉の水面を揺らした。
「……通じる!」
だが安堵した瞬間、再び影が消える。
次の攻撃がどこから来るかわからない。
ブランフォームの直感だけでは限界がある。
「……跳ねるしかねぇ!」
わたしは再び瓢箪を傾け、スパークリングワインを喉に流し込む。
舌に残る炭酸の刺激、甘みと苦みが同時に弾ける。
「《跳躍上昇・ブリュットフォーム》!」
足に軽さが宿り、わたしは宙を舞う。
泉の上を一気に跳び越え、眼下に蒼い影の群れを見下ろした。
「見えたッ!」
真ん中の一体――揺らぎがなく、爪が確かに地面をえぐっている。
「行けぇぇぇ!」
金棒を振り下ろす。
蒼光の狼が避けようとした瞬間、クラリスとミスティアが左右から同時に追撃。
剣の閃光と炭酸の槍が狼の動きを封じた。
――ドォンッ!
直撃。衝撃で泉の水柱が噴き上がる。
だが、蒼森獣はまだ立っていた。
黄金の瞳がぎらりと光り、今度は全身の靄を爆ぜさせながら咆哮を放つ。
森全体が震え、再び幻影が広がる。
「まだ……終わらないのかよ!」
わたしたち《酔いどれ旅団》は、幻惑と圧力の中で踏みとどまる。
――虹果の実を掴むために。




