秘蔵酒の発見
――戦いの余韻は、まだ体の奥に燻っていた。
ガーディアンを打ち倒したあの瞬間から、世界は静けさを取り戻したはずなのに、耳の奥でかすかな震えが続いている。
まるで、まだ酒の鼓動が地の底から響いているように。
「……静か、すぎる」
クラリスが剣を杖にしながら息を吐く。肩で荒い呼吸を繰り返していたが、視線だけは前を外さない。
「酔いの霧が晴れたのに……まだ香る。何かが残ってるわ」
「ええ……ただの酒気じゃありません」
ミスティアが杖を掲げると、先端に宿る水色の光が淡く揺れた。
「これは……もっと古い。もっと、深く染み込んだもの……」
わたしははふらつく足を無理やり前へ出し、奥の壁を睨んだ。
崩れかけた石壁の亀裂から、ほのかに琥珀色の光が滲んでいる。
香りも漂ってきた。鼻をかすめた瞬間、全身の産毛が逆立つような甘い芳香。
葡萄でも麦芽でもない、言葉にできない濃厚さが空気を満たしていた。
「……お酒だ」
気づけば声が震えていた。
「ただのお酒じゃない……もっとすげぇやつだ……!」
クラリスが振り返り、眉をひそめる。
「伊吹、落ち着きなさい。あんた、今にも突っ込む顔してる」
「落ち着けるわけがない。だって匂いが……喉がもう欲しがってるの」
「……はあ。平常運転ね」
だが、彼女の声にもかすかな震えが混じっていた。
酔いに呑まれたわけではない。目の前にあるものが、常識を超えていたからだ。
わたしたちは壁の裂け目を押し広げ、慎重に奥へと進んだ。
石屑がぱらぱらと落ちるたび、琥珀色の光が明滅して辺りを照らす。
足音が響くたびに、甘い香りが濃くなる。
やがて――。
「……これは……」
ミスティアが足を止めた。
そこは小さな円形の広間だった。
中央には、黒い石の台座。
その上に鎮座していたのは――封じられた一本の酒樽だった。
木目は深く刻まれ、ところどころに黄金の装飾が施されている。
無数の年代を重ねた証のように、ひび割れから滴る液体が結晶となり、台座に琥珀の雫を作っていた。
その雫が放つ光が、広間を照らしていたのだ。
「……美しい……」
クラリスが思わず呟く。剣を構えていた腕が、いつの間にか力を抜いていた。
「これが……お酒? まるで宝石みたい……」
わたしはもう一歩踏み出した。
喉が鳴る。心臓が跳ねる。
触れたい。飲みたい。あの雫を喉に流し込みたい――。
だが、その腕をクラリスが掴んだ。
「馬鹿、触らないの!」
「な、なんで止めるの!?」
「こんなの……ただのお酒なわけないでしょ! またガーディアンが現れたらどうするの!」
「……クラリスさんの言う通りです」
ミスティアが静かに口を開いた。
「これは、ただのお酒ではありません。おそらく“伝承級”……酒神に捧げられた秘酒。その存在そのものが、この神殿を生かしていた」
「伝承級……?」
「飲めばどうなるか……想像もつきません。命を燃やすかもしれないし、あるいは……」
彼女の声は静かだが、底に震えがあった。
私は口を噤む。
喉はまだごくりと鳴っていた。
けれど同時に、背筋を冷たい汗が伝う。
「……そういうことなら、軽々しくは触れないか」
深呼吸し、ぐっと背中の金棒を背負い直す。
「でも――絶対に、いつか飲む。こんな酒、この世にあるってだけで、わたしの血が騒いでる」
クラリスは苦笑した。
「はあ……そう来ると思った」
ミスティアは頷き、台座に視線を戻す。
「準備が必要です。心も、体も。でなければ、このお酒に呑まれる」
――広間の空気は、依然として甘く濃い。
琥珀色の光は、永遠の時を湛えるように静かに揺れていた。
私たちはその場に一礼し、背を向けた。
まだ、時は来ていない。
けれど確かに、ここに在る。
――伝承級の秘酒。
その一杯を喉に通す日を、胸の奥で誓いながら。




