市場に揺れる酒瓶と財布の悲鳴
――翌朝。
私たち《酔いどれ旅団》は、泡鳴区の市場へやってきていた。
通りには干した魚の匂いと焼き立てパンの香り、さらに香辛料の刺激的な香りが入り交じり、もう胃袋が騒がずにはいられない。
色とりどりの布で覆われた屋台には肉の塊、果実、酒瓶、魔導器までがずらり。
人の声と値切りの交渉が飛び交い、喧騒が耳を埋め尽くす。
「よしっ、今日は補給デーだ!」
私が胸を張ると、クラリスが眉間を押さえる。
「伊吹、最初から酒に直行する気でしょ」
「なんでバレた?」
「顔を見ればわかる」
「昨日のあれで凝りてないんですね」
クラリスは財布を握りしめ、鋭い眼光で私の行動を監視していた。まるで借金取りのようだ。
その横でミスティアは、静かに市場の奥を見渡していた。
「……保存用の瓶や、炭酸保持に優れた魔導器も探したいですね」
まず立ち寄ったのは、精肉屋の屋台。
ぶら下げられた赤鹿の腿肉から滴る赤い雫は、まるで呼吸しているように艶めいていた。
「……あれを塊のまま焼いて、岩塩をぱらっと……ビールで流し込みたい」
「伊吹、よだれ出てる」
クラリスが冷静に突っ込む。
続いて、香草と香辛料の屋台。
袋いっぱいに詰められた赤唐辛子、乾燥バジル、見たことのない青紫の葉……鼻を近づけるだけでくしゃみが出そうな香りが広がる。
「これで煮込み作ったら、絶対エールに合うよね」
「伊吹、買いすぎはダメ」
「ええーっ」
問題は次だ。
通りの一角――棚いっぱいに酒瓶を並べた屋台に足を踏み入れた瞬間、私は呼吸を忘れた。
透明な瓶に黄金色の液体。
琥珀に近い濃厚な赤。
泡立ちを思わせる白濁液まで。
この世界でもおいしいお酒はあるのだとエルフやドワーフには聞いていたが、市場に並んでいるのもなかなかのお酒に見えた。
「おおお……まるで、天国」
これはぜひ試してみなければならない。
「伊吹、財布は渡さないからね」
クラリスが私の腕をしっかり掴んでいる。
「これは“山葡萄の濃縮酒”。甘口で香りが強い。女性に人気だな」
店主が差し出した小瓶を嗅いだ瞬間、果実の爆発みたいな香りが鼻を突いた。
「……やっば。クラリスこれ買おう」
「ダメ」
「一生のお願い!」
「それ何回も聞いた」
横でミスティアが冷静に別の棚を指差す。
「……この『炭酸保持瓶』、酒の泡も長持ちさせられるそうです」
「ナイスミスティア! それ買おう!」
「はい、これは実用的ですから」
「……酒関連だと即決するのね」
クラリスがため息をついた。
昼どきの泡鳴区市場。
屋台の軒から漂ってくる匂いに、私の胃袋はもう限界を訴えていた。
鉄板で焼かれる肉の脂が弾ける「じゅうっ」という音。
香草パンを石窯から取り出すときに立ち上る白い湯気。
揚げ物の油の中で、黄金色に変わる衣のパチパチとした音――。
「こ、これは……もう食わずに帰れるやつじゃない……!」
「伊吹、買い出しの途中だから。寄り道は最低限に」
クラリスの声は冷静だが、その視線は焼き立てパンの山に釘付けになっている。
「……香ばしい匂いが……お腹を刺激しますね」
ミスティアの表情も、わずかに緩んでいた。
まず目を引いたのは、炭火の上でぐるぐる回る巨大な肉の塊。
表面は香ばしい焦げ目がつき、ナイフが入るたびに、じゅわっと肉汁が溢れ出す。
「すみませーん! 三本!」
受け取った串焼きを、我慢できずにその場でかぶりつく。
――カリッ。
最初に歯に触れるのは、表面の香ばしい焼き目。
その奥から、じゅわっと溢れる脂と旨味。
口いっぱいに広がった肉の香りが、炭火の煙と絡み合って鼻を突き抜けていく。
「……っはぁあ! これだよこれぇ!」
「……うん、これは確かに美味しい」
クラリスがつい笑みをこぼす。
「炭の香りが……肉の甘みを引き立ててますね」
ミスティアが目を細める。
さらに、唐辛子を少し振りかけてみる。
ピリッとした刺激が加わり、肉の甘みがより際立つ。
もう一本、もう一本と、手が止まらなくなる。
次に立ち寄ったのはパン屋台。
石窯の中から取り出されたばかりの丸パンは表面がこんがりと焼き色を帯び、手で割ると「ぱりっ」と音を立てて裂ける。
中からは湯気とともに、小麦の甘い香りがふわっと広がった。
そこへ、屋台のおばちゃんが蜂蜜をたらり。
さらに柔らかいバターをのせると、熱でとろりと溶けて黄金色の筋を描いていく。
「……っずるい……そんなの美味いに決まってる」
かぶりつけば、外はカリッ、中はふわっ。
溶けた蜂蜜とバターが舌の上で混ざり、小麦の甘さを包み込む。
噛むたびに小麦の香ばしさと蜂蜜の濃厚な甘さが交互に押し寄せ、気づけば喉が飲み物を求めている。
「……このパン、危険ね。永遠に食べられそう」
「わかる……! しかも酒と合う! 絶対ワイン!」
「伊吹、もう“補給”っていうか飲み会前提の話になってる」
さらに通りを進むと、大鍋から立ち昇る香りに足が止まった。
透明感のある黄金色のスープ。
表面には香草と刻んだ野菜が浮かび、ぐつぐつと小さな泡を立てている。
「味見するか?」
屋台の親父が差し出した木の椀を受け取り、ひと口――。
熱々のスープが舌に触れた瞬間、鶏の旨味がぶわっと広がった。
にんじんの甘み、セロリの香り、岩塩のシンプルな塩気。体の芯から温められていく。
「……あぁ……これ……炭酸と合わせたい……!」
「伊吹、炭酸入れたら台無しになる」
「いえ、意外と……合うかもしれません」
ミスティアが真剣に呟く。
「ほらー!」
「……その“ほら”やめて」
結局、私たちは串焼き、石窯パン、スープ、さらに果実の盛り合わせまで購入。
赤い果実をかじれば、ぷちっと皮が弾け、果汁が舌を濡らす。
酸味と甘みのバランスが絶妙で、口いっぱいに爽やかさが広がる。
その合間に肉を頬張り、パンでスープを掬い取って食べる。
「……これ、食べる順番考えるだけで楽しいな」
「伊吹、食べ合わせで遊ばない」
「でも確かに……全部が一つの宴になってます」
ミスティアが珍しく楽しそうに笑った。
気づけばジョッキ片手に市場の屋台を食べ歩き、胃袋も心も幸せで満たされていた。
夕方、荷車いっぱいに食材・香辛料・瓶・日用品が積まれていた。
「……これ、絶対予算オーバーよ」
クラリスが財布を抱えながらため息をつく。
「でも、必要なものだけだし!」
「酒瓶八本は“必要”じゃない」
「全部違う味だよ! 戦略だよ!」
「……言い訳がもう酔ってる」
ミスティアが苦笑しつつ、荷物の確認を終えた。
「補給は完了しました。次は……訓練ですね」
――財布は軽く、荷車は重く。
こうして《酔いどれ旅団》の補給デーは、胃袋と酒瓶の幸せを抱えて終わった。




