潜入任務:酩酊地帯、泡鳴神殿の跡地
――泡鳴区の外れ。酒神を祀ったと伝わる古い神殿跡。
一歩踏み込んだ瞬間、肺がじんわり熱を帯びた。
何も飲んでいないのに、頬が少し火照る。
「……空気、甘い。喉の奥がぽわっとする」
「揮発したアルコールが魔力と混ざってます。長居は危険ですね」
ミスティアが杖を握り直す。
「吸って酔うなんて、笑えないわ」
クラリスが小さく舌打ちし、剣の柄に手を置いた。
石畳の割れ目からは細かな泡の帯がふわふわ立ち上り、砕けた酒樽のレリーフは黒く染みている。
瓦礫の端で、真珠の粒みたいな泡が光って――はじけた瞬間、かすかな笑い声がした。
ぞくり、と背筋が冷える。
「《泡沫魔法・零式:エアボム》」
ミスティアが杖先をトンと弾く。
ぱん、と乾いた音と同時に、透きとおる炭酸の膜が周囲へ広がった。
甘い霧が押し返され、視界がひと呼吸ぶんだけクリアになる。
「助かる……三呼吸ルール、守ろ」
私は合図を確認するように指を三本立てる。
「三回吸って、二の腕つねる。正気チェック」
クラリスが素早く私の二の腕をつねった。
「はい、痛い?」
「痛い! 正気!」
私は親指を立てる。
ミスティアも無言で自分の腕をつねり、こくり。
神殿の中へ。
壁は酒の染みでまだら模様、床には転がった杯、天井からは泡の雫がぽとり……ぽとり……と落ちるたび、微かな酔気が濃くなる。
視界の端で、何かが揺れた。
「……今、いたわよね?」
クラリスが低く問う。
「うん。人影、みたいなのが――」
ふわり、ふわり、と現れたのは、酒器の蓋を仮面みたいに顔へ載せた影。
肩からは垂れた泡がたれ流れ、足音の代わりにくすくすと笑い声を撒き散らしながら近づいてくる。
「……“お酒の精”って噂、あながち冗談じゃないのかもね」
私は背中の金棒《酔鬼ノ号哭》に手をやる。
「伊吹、まだ火気は厳禁。爆ぜるのはナシよ。ここ、空気が危なすぎる」
クラリスが釘を刺す。
「了解。殴る。シラフで」
影がぬるりと腕を伸ばした。指先は泡。触れた石が、ちり……と溶ける。
「《泡沫魔法・防膜:ソーダシェル》!」
ミスティアの炭酸膜が私たちを包む。透明な薄皮に泡がぱちぱち弾け、溶解の指先をはじき返した。
「今!」
私は一息で間合いを詰め、《酔鬼ノ号哭》を横薙ぎに振る。
鈍い手応え。
仮面が砕け、影は泡の粒にほどけるように霧散した――が、飛沫になった泡が床に落ちると、また別の“笑い声”が芽吹く。
「分裂する……めんどくさいタイプ」
クラリスが前へ出る。
「《閃律剣・ラピス》!」
蒼い光の軌跡。
斬撃の音色が空気を澄ませ、立ち上る泡声を断つ。
続けざまに「《閃律剣・セレスタ》!」――縦の震音で、壁沿いに増えかけた影が音ごと解かれていく。
「増殖点、床面です。足元からの湧き上がりを抑えるなら……《泡沫魔法・滑層:スリップフォーム》」
ミスティアの泡層が床を薄く覆い、湧き出る泡声の核を滑らせて、壁際に寄せ集める。炭酸の走る音がシャーッと広がり、泡の芽が鈍る。
「よし、まとめて――」
「待って!」
クラリスの声が鋭くなる。
「伊吹、目!」
視界が揺れた。
床の泡が一斉に“琥珀色”に染まり、鼻先へ――甘い、甘い匂い。
樽の奥で何十年も眠った酒の気配。バッカス様の神酒みたいな、完璧な一杯が、私の目の前で波打った。
(飲みたい――)
胸の奥から、強烈な渇き。
無意識に、腰の《酔楽の酒葬》へ手が伸びかけた、その瞬間。
ばしん、と二の腕に痛み。クラリスだ。
「伊吹、戻って!」
「……っ、ありがと。危なかった……!」
「幻覚が“好み”で来るタイプですね。注意を」
ミスティアの声が落ち着いているのが、妙に心強い。
「三呼吸。つねる。正気」
私は自分の頬もぺちぺち叩く。
「よし、冷めた」
壁際に追い詰めた泡声の塊が、今度は“人影”の形を濃くしはじめる。
薄いヴェールの向こう、甲冑の輪郭。
……クラリスの視線がわずかに揺れた。
「クラリス、見えてるのは?」
「……騎士団。いや、違う。兄……じゃない、これは――」
彼女の呼吸が乱れかける。
私は迷わず、彼女の手首を取り、ぐっと握った。
「クラリス、こっち。今は私とミスティア見て」
「……うん、平気。ありがと」
「視線はこちらに。泡を流します」
ミスティアが静かに杖を掲げる。
「《泡沫魔法・零式:エアボム》」
ぱん、と澄んだ破裂音。
圧のかかった炭酸が、幻影の“膜”を一枚はがすみたいに吹き飛ばす。
壁際へ追いやられた“幻”が泡粒へ戻る。
ほっと息をつく――その背後から、耳元へ囁き声。
のめ。
のめ。
もっと、のめ――。
ぞわっと首筋が粟立つ。
振り返ると、私そっくりの影が、にやりと笑っていた。
手に《酔楽の酒葬》を持ち、私の口へ酒を流し込もうとしている。
「おまえ、だれの真似してんのよ!」
反射で《酔鬼ノ号哭》を振り抜く。
が、影は紙一重で退き、笑い声だけを床へ落として消えた。
落ちた笑いが、泡の種になって左右へ散る。
「フリだけして、撒く……厄介」
私は歯噛みした。
「ミスティア、足場、もう一段“深く”滑るの作れる?」
「できます。《泡沫魔法・滑層:スリップフォーム》――増圧」
床の泡が一段きめ細かくなり、泡粒の転がりが中央へ吸い寄せられる。
寄せられた泡の巣に、クラリスが「《閃律剣・フェリシア》」と名を囁き、刃を横に走らせた。
鈴のような清音が鳴り、泡声の群れがまとめて静まり返る。
「……通路、確保。今のうちに奥へ」
ミスティアが示した先、祭壇の奥に石の階段がぽっかりと口を開けていた。
下から吹き上がる風は、さっきより濃い甘さを帯びている。
「下は、もっと濃いわね。合図、忘れないで」
クラリスがちらと私を見る。
「了解。――行こう」
階段を降りるほど、壁の染みが“流れて”見えてくる。
低い振動が足裏へ伝わり、鼓動と同期するみたいに胸がざわめく。
曲がり角をひとつ抜けたところで、ミスティアが足を止めた。
「……聴こえますか?」
遠い地鳴り。泡が連続してはじける音。
……そして、酒樽を巨大にこすったような、鈍い唸り声。
「嫌な予感しかしない」
私は乾いた笑いを漏らす。
「でも、行くんでしょ」
クラリスが肩を並べる。
「もちろん。ここまで来た以上、原因を断たないと――泡鳴区が酔い潰れる」
三人で頷き、最後の踊り場を曲がる。
地下の広間――祭壇跡の中心に、黒い酒霧が渦を巻いていた。
渦の芯で、何かが、ゆっくりと身をもたげる。
樽の鳴りにも似た低音が、胸骨を内側から鳴らした。
私は自然と《酔鬼ノ号哭》を握り直す。
腰の《酔楽の酒葬》が、栓の向こうでちり、と鳴った気がした。
「――来る」
酩酊の渦が牙を見せる寸前で、私は深呼吸を三回。二の腕をつねり、ふたりを見た。
正気。準備完了。
酒気、霧を裂く――その先へ。




