酒気、霧を裂く――その先に《後編:終幕》
――霧が、完全に消えていた。
私たちはしばらく、その場で動けずにいた。
霧魔獣の“親玉”が崩れ去ったあと、森の空気は明らかに変わった。ぬるりとした重さは消え、代わりに森本来の湿り気と、草木の匂いが戻ってくる。
「……終わった、んだよね」
私はまだ鼓動の早さが抜けきらないまま、背後の二人に問いかける。
「ええ。魔力反応も、霧の濃度も、すべて消滅しました」
ミスティアは、炭酸の膜をゆっくり解除しながら頷いた。いつもの丁寧な口調が、少しだけほっと緩んでいた。
「本当に終わったなら、帰ろう。私、もう喉カラッカラなんだけど」
クラリスも、フェリシアを鞘に収めてぐったりとした声を漏らす。
私も金棒《酔鬼ノ号哭》を背に戻し、腰の瓢箪《酔楽の酒葬》を撫でるように手で押さえた。中の酒が、ぐつぐつと名残惜しげに揺れている。
「帰って……冷たいビールでも飲みたいな。……おいしくないけど」
「……それ、伊吹さんが言うと現実味ありすぎます」
「ミスティアもどう? いつか炭酸でハイボール作ってさ」
「……検討いたします」
ささやかな笑いが三人の間に流れる。
戦いの余韻が、ようやく“日常”に戻してくれた気がした。
それでも、森の出口に向かう道すがら――私はふと、振り返ってしまう。
あの窪地。黒い霧の核があった場所。
今は何もない。
けれど、私の背中を微かに撫でた“違和感”は、どこかに残っていた。
*
「ごくろうさまー! 三人とも、無事で何より〜」
ギルドに戻ると、受付カウンターの奥から、ミナさんがふわっとした笑顔で出迎えてくれた。
「ほら見て、ちゃんと書類も揃えておいたんよ~!」
「おお、珍しく仕事が速いしてる……!」
「むぅ、今日の私は優秀なんだから〜!」
そんなやり取りを交わしながら、私たちは依頼完了の報告を済ませる。
ミスティアが魔力反応の消失を記録した魔導測定器のデータを提出し、クラリスが現場の状況を要点だけ簡潔に説明。私は、戦闘の最中に発見した腐食痕や異常な霧の性質について、覚えている限りを伝えた。
酒バフが抜けた私にだって報告ぐらいはできる
「ふむふむ、今回の霧魔獣、やっぱり普通の魔物とはちょっと違った感じだったのねぇ……」
ミナさんが書類をトントンと揃えながら、少し真面目な表情を見せる。
「上にも報告しとくね〜。もしかしたら、背後に何か……」
「何か?」
「なーい、かもしれないけど! うんうん、あんまり気にしないで。とりあえず、報酬はちゃんと出るからね〜!」
おっとりした口調に戻るミナさん。
でも私は、その“間”にほんの少しだけ、嫌な予感がにじんでいる気がした。
*
その夜。
泡鳴区の拠点では、祝杯もそこそこに、三人して泥のように眠り込んだ。
私は寝る前に、そっと瓢箪を抱えながらつぶやく。
「……酔ったままじゃ、気づけないこともあるんだよな」
ぼんやりと浮かぶ、霧の奥の気配。霧魔獣の“核”の残滓。
あれは――誰かが“意図して生み出した”ものじゃないのか。
でも、今はまだ考えても仕方がない。
「明日も、ちゃんと……飲もう。できればおいしいのを……」
私は目を閉じ、炭酸のように泡立つ思考を、そっと沈めた。




