女王蜂の巣
森の奥へ進むほど、音が減っていった。
鳥の声も、風のざわめきも、虫の鳴き声さえも。
代わりに残るのは、低く、均一で、終わりのない羽音だけだった。
ぶぅん、ぶぅん、ぶぅん。
耳の奥を撫でられているみたいで、気づくと呼吸が浅くなる。
甘い匂いが、肺の内側に膜を張って、吐く息まで砂糖みたいにしていく。
「……ここから先、香りが濃くなってる」
フィオラが先に言った。薬包を手で握り潰し、苦い粉を舌に乗せる。彼女の顔色は変わらない。目だけが鋭くなっていく。
「吸いすぎないで。幸福が“麻酔”として働くと、痛みの判断が鈍るから」
痛みの判断。
――つまり、生きている判断。
わたしは唇を噛み、瓢箪の口を指で撫でた。いつもの癖だ。酒気が微かに揺れ、甘さに溶けそうな心を現実側へ引っ張る。
ミスティアが前に出る。水色の髪が揺れ、杖先が湿った光を帯びた。
「視界、泡で作ります。……森が目を奪う前に」
彼女が小さく詠む。
《泡沫魔法・滑層:スリップフォーム》
淡い泡が地面に広がり、落ち葉と泥を薄い膜で覆っていく。足元の感触が変わる。ぬるりとしたいつもの感触がありがたい。甘さに騙されないための、現実の手触り。
クラリスは剣を抜かず、鞘のまま握っている。剣の刃を見せないのは、蜂群を刺激しないため。
レオニスが、最後尾で短く指示を飛ばす。
「村人は退避済み。ここからは、我々だけの問題だ……見せ物になるつもりはない。全員、生きて帰る」
その言葉に、背筋が少し伸びた。
村人がいない。
――それだけで、火が使える。
だからこそ、恐怖が襲ってくる。
やっと“本当の戦場”になったのに、心のどこかが、まだ甘さに揺れている。
森の奥に、巨大な影が見えた。
木々の間に、木で作られた柵。見張り台。吊り下げられた無数の箱――養蜂箱に似ている。
でもサイズが違う。人の背丈より大きい。しかも、箱の隙間から、金色の液体が糸のように垂れている。
蜜だ。
地面に落ちた蜜は腐らない。苔も生えない。代わりに、そこだけ土が固まり、滑らかな琥珀色の板みたいになっている。踏めば靴底が吸い付く。引き剥がすたび、甘い匂いが立つ。
「……養蜂場、っていう規模じゃないですね」
ミスティアが呟く。声が震えるのは、恐怖じゃない。甘さに喉が緩むからだ。
柵の内側は、宗教施設みたいだった。花が供えられ、蜜が溜められ、木彫りの女王蜂の像がいくつも立っている。祈りの場。幸福の供給所。人が自分から檻へ入るための、入口。
吐き気を抑える。
甘い匂いは、吐き気と似ている。幸福と破滅が、同じ匂いをしている。
柵を越えた。
越えた瞬間、空気が変わった。
――重い。
甘さが重い。匂いが、香りじゃなく、圧力になって胸を押す。息を吸うたび、頭の中に白い光が滲む。気持ちいい。だからこそ、危ない。
そして、その先に“入口”があった。
養蜂箱の裏、地面が裂けたような穴。木の根が絡み合い、蜜で固められた巨大な洞窟の口。
蜂の羽音が、そこから湧いている。
ぶぅん、ぶぅん、ぶぅん。
音が誘ってくる。
――ここへおいで。
――何も考えなくていい。
フィオラがわたしの袖を掴んだ。
「伊吹。今、行きたくなったよね?」
「……うん」
認めるしかなかった。否定したら、引きずられる気がしたから。
レオニスが短く言う。
「入るぞ。接触したら言葉で引き戻す。戦闘は最後の瞬間まで温存」
クラリスが頷く。
「了解。……伊吹、甘さに酔わないでよ」
「わたしが酔うのはお酒だけだ」
わかってる。
わかってるのに、足が軽くなる。
洞窟へ入った。
中は巨大だった。
天井から垂れ下がるのは、鍾乳石じゃない。蜜の柱だ。
金色の滴が一定のリズムで落ちてくる。
落ちるたび、床に広がり、薄い湖を作る。
蜜の湖面は、焚き火もないのに光っていた。
内側から発光しているみたいに、ぬめるように煌めく。
壁面には、蜂の巣がびっしりと張り付いている。
人の胴体ほどの巣が何百、何千。そこから蜂群が出入りし蜜を運び、空間全体を工場に変えている。
甘さが限界まで高まった。
脳が溶ける。
金棒を担いでいる肩の痛みが消える。
怖さが薄まる。
――ああ、これなら。
これなら、苦しまなくていい。
これなら、選ばなくていい。
その瞬間、足元の蜜が静かに割れた。
水面ではないのに、水面みたいに裂けて、そこから影が立ち上がる。
蜜蜂隊長。
木々の上で見た影より、はっきりした姿だった。獣人寄りの輪郭。しなやかな四肢。人の顔立ちに、蜂の硬質な輝きが混じっている。背には薄い羽。羽ばたいていないのに、羽音だけが常に鳴っている。
蜂を従える王。
いや――女王の意思を持つ“隊長”。
彼(彼女)の目が、わたしを見た。
その目は村人の目と同じだった。
怒っていない。
憎んでいない。
ただ、当然のように、こちらを“邪魔”として認識している。
「来たね」
声は優しかった。甘い蜂蜜酒みたいに、喉へすっと入る。
「争わなくていいのに。ここは、苦しまなくていい世界だ」
フィオラが一歩前へ出かけ、レオニスが手で制する。言葉で引き戻す。戦闘は温存。約束通りだ。
蜜蜂隊長は続ける。
「選ばなくていい世界だ。迷わなくていい。後悔しなくていい。みんな、優しくなる。穏やかになる。それの何が悪いの?」
洞窟の蜜がきらりと揺れた。
甘さが肯定を求めてくる。
うん、と言えば楽になる。
そうだね、と言えば痛みが消える。
その誘惑が言葉じゃなく空気で迫ってくる。
《酔鬼ノ号哭》を握り直した。
金属の冷たさが、掌に痛い。
痛いから、まだ自分でいられる。
正気を保っていられる。
息を吸って――甘さに負けないように、わざと苦い声を出した。
「それは……生きてるって言わない」
蜜蜂隊長の目が、わずかに細くなる。
「生きてるよ。ほら、見て」
蜂群が巣の表面を滑る。働く。運ぶ。作る。規則正しい。美しい従順だ。
蜜蜂隊長は微笑んだ。
「みんな、役割がある。役割があれば、迷わない。迷わなければ、苦しまない。苦しまなければ――幸せ」
わたしは首を横に振った。
「役割があるのはいい。でも、役割を“選べない”のは違う」
言葉にした瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
幸福を壊す覚悟。
幸福を壊す役割。
わたいはこの役割を選んだ。
蜜蜂隊長の声が少しだけ低くなる。
「選ぶって、そんなに大事? 選ぶから、人は傷つく。選ぶから、人は争う。選ぶから、人は泣く。だったら……最初から、選ばせなければいい」
甘い理屈だ。
わたしは一歩前へ出た。
蜜の湖面が靴に絡みつく。
引き剥がすたび、ぺたり、と音がして、甘さが跳ねる。
「苦しまないために、意思を奪うのは違う」
わたしは続ける。
「泣くのも、怒るのも、怖がるのも――全部、生きてる証拠だ」
蜜蜂隊長が首を傾げた。
「痛みが好きなの?」
「好きじゃない。むしろ嫌いだ」
即答した。
「甘いのは嫌いじゃない。幸せだって、嫌いじゃない」
わたしの視線は、蜜の湖を横切り、無数の巣へ向かう。ここにある全部が支配の装置だ。
「でも、借り物の幸せは毒だ。切れたあとに、地獄が来る」
わたしはそれを知っている。
蜜蜂隊長の表情から、笑みが消える。
怒りはない。
ただ――理解できない顔だ。
「地獄なんて、来ないよ。ずっと、甘くしてあげる。ずっと、優しくしてあげる。ずっと、ここにいればいい」
その瞬間、確信した。
この敵は悪だから倒すんじゃない。
終わりがないから倒す。
人が人でいるための終わりを、永遠に先延ばしにする存在だから。
レオニスが低い声で言った。
「交渉はここまでだな」
フィオラが小さく頷く。
「……村人は退避済み。戦場はここだけだ」
クラリスが鞘から剣を引き抜いた。
きん、と澄んだ音が洞窟に響く。甘さに濁った空気が一瞬だけ割れる。
蜜蜂隊長は、こちらを見て――静かに告げた。
「……じゃあ、仕方ない」
そして、指を鳴らすみたいに軽く手を上げた。
ぶぅん。
羽音が一斉に跳ね上がる。
巣の表面が波打ち、蜂群が溢れた。黒と金の奔流。空間を埋める生き物の壁。
蜜の湖面が震え、甘さが命令に変わる。
「守って」
蜜蜂隊長の声は、優しいままだった。
「女王の巣を」
蜂群が動く。
――開戦。
わたしは《酔鬼ノ号哭》を肩に担ぎ直し、瓢箪に指をかけた。
火はここで解禁できる。
もう、村人は前に出てこない。
だから――今度こそ、全力で焼ける。
甘美なる戦場の中心で、わたしは息を吐いた。
「……来いよ」
甘さを。
幸福の檻を。
燃やすために。




