幸福を壊す覚悟
夜が深くなるほど、森の甘さは濃くなった。
焚き火の煙が上へ逃げていくのに、あの匂いだけは地面にへばりつくみたいに残る。
蜜の香り。安心する匂い。胸が軽くなって、肩の力が抜けて、――考えるのが面倒になる匂い。
それが、怖かった。
焚き火のそばで毛布にくるまった少年は、眠っては起き、起きては森の方を見た。
目が覚めるたび、唇が「ほしい」と形を作りそうになる。本人は言わない。
ただ、喉が渇いたみたいに小さく唾を飲み込み、指先が落ち着かずに動く。
フィオラが水を渡すたび、少年はそれを飲む。
でも、飲み終わったあと、口の端が少しだけ下がる。
水じゃ足りない、と言っているみたいで。
――これは、毒じゃない。
毒なら、もっと簡単だった。
吐かせればいい。解毒すればいい。身体から抜けばいい。
でもこれは、心に染みる。
幸福を“当たり前”にしてしまう。
レオニスが焚き火の向こうで地図を広げていた。
村の外縁、森の入り口、罠の地点、村人が壁になった場所。
短時間のゲリラ戦で得た情報を淡々と線に変えていく。
彼の手は迷いがない。
やるべきことがはっきりしているからだ。
その迷いのなさは卓越していて今の私には怖く見える。
「伊吹」
呼ばれて、わたしは顔を上げた。
レオニスは地図から視線を外さず、けれど言葉だけをこちらに向けた。
「このままでは村が完全に蜂の巣になる」
蜂の巣。甘い。規則正しい。居心地がいい。外敵を排除する。
女王のために働く。働いている自覚すらない。
村は、すでにその途中にいる。
今日引き剥がした少年も、明日また森へ近づけば、簡単に戻されるだろう。
レオニスが地図を畳む。
焚き火の赤が、彼の横顔に影を落とした。
「対処療法では追いつかない。依存を断つには、供給源を止めるしかない」
供給源。
蜜蜂隊長。
女王蜂。あるいは王そのもの。
レオニスはそこで一度、言葉を切った。
医師が患者に宣告するときの間に似ている。
「倒せば、幸福は消えます」
焚き火がぱちり、と爆ぜた。
少年が身じろぎする。
フィオラが毛布を直し、寝息が落ち着いたのを確認してから、わたしを見た。
彼女の目は、冷静で、だけど痛みも含んでいる。
レオニスが続ける。
「……彼らは、救われたと思っています。ですが、甘さを奪えば、彼らは泣きます。怒ります。そして怖がります」
その先の言葉を、わたしは知っていた。
幸福が切れた反動。
あれは地獄だ。
甘さが消えた瞬間、現実が剥き出しになる。怖さも、不安も、怒りも、全部まとめて戻る。
人はそれに耐えられなくて、“元に戻りたい”と叫ぶ。
わたしはその叫びを、すでに聞いている。
――返せ。
――元に戻りたいだけだ。
あれは、正気の言葉だった。正気だからこそ、わたしたちの胸に響く。
レオニスが、最後の釘を打つ。
「それでも、やりますか」
問いは短く重い。
わたしは答えられなかった。
焚き火を見つめる。赤い炎は、薪を食べて形を変える。揺れて、伸びて、縮んで、また伸びる。火は嘘をつかない。燃えるものを燃やすだけだ。甘さだろうと、巣だろうと、森だろうと。
――燃やせば終わる。
それだけは、わかっている。
わかっているのに。
「幸せを壊すなんて……」
声は小さかった。誰かに聞かせるための言葉じゃない。
自分の中で、言葉にしないと消えてしまいそうだったから自然と漏れ出た。
クラリスが黙ってこちらを見る。剣士の目だ。戦う理由を見失うな、と言っている。
ミスティアは唇を噛み、視線を落とした。泡の魔法で押し返すことはできる。
でも、根っこには届かない。だから彼女は、今は何も言えない。
フィオラが、ぽつりと言った。
「伊吹、お前は……火が使えるんだろ。でも火は万能じゃない。火は選ばせてくれない」
火は一線を超える。
わたしが火を選んだ瞬間、村は“元の村”には戻らない。幸福は消える。甘さは消える。依存も消える。支配も消える。
同時に――彼らが逃げ込んでいた場所も消える。
それは、救いか?
それとも、追い出しなのか?
毛布の少年を見た。
小さな肩が上下している。呼吸はまだ浅い。夢の中でさえ、甘さを探しているみたいだ。
ふと、自分の過去を思い出す。
お酒で救ってきた。
お酒で殴ってきた。
――お酒は逃げ道にもなる。
逃げ道がなければ、人は壊れる。
だから、お酒は時に必要だ。
でも、これは違う。
これは逃げ道じゃない。
行き止まりだ。
戻れない道だ。
「……借り物だ」
わたしは呟いた。
幸福が借り物であることを、村人たちは知らない。借り物だと知ってしまった瞬間、怖くなるから。
だから彼らは“知らないまま”でいたい。
甘さは、その願いに寄り添ってしまう。
優しく。
完璧に。
だからこそ、止まらない。
レオニスが静かに頷いた。
「彼らが自分で立つには、借り物を返すしかない。返した瞬間は痛い。だが……痛みがなければ治癒は始まらない」
治療は、ここからだ。
それをこの人は本気で言う。
医師は、痛みをゼロにできない。痛みの意味を変えることはできる。
でも、痛みそのものを消し続ければ、人は壊れる。
幸福と同じだ。幸福を“切れないように”したら、人は依存して壊れる。
息を吐く。
甘い匂いが肺に入り、軽くなれ、と囁く。
わたしはその囁きを、喉の奥で噛み潰した。
「壊す」
言った瞬間、胸が冷たくなる。
でも、同時に――背筋が伸びた。
「自分で立てる場所を取り戻す」
クラリスが、短く頷いた。
「それでいい。……それでこそ伊吹よ」
ミスティアは目を閉じて、息を整えた。
「私も……支えます。引き剥がしが必要なら、泡で道を作ります」
フィオラが視線を落とし、それから顔を上げる。
「倒したあと、私たちが残る。泣く人を診る。怒る人を受け止める。怖がる人の手を握る。だから……壊す役目を、あんた一人に背負わせない」
わたしは頷いた。
背負うのは、わたしだ。
でも、ひとりじゃない。
レオニスが地図を広げ直し、指で森の奥を叩いた。
「巣の最奥へ一気に通す。村人を巻き込まない。退避の導線を確保し、戦場を限定する。蜜蜂隊長が姿を見せるのは――蜜の中心だ」
蜜の中心。
あそこなら、火を使える。
火を使う理由が、まっすぐになる。
わたしは《酔鬼ノ号哭》を膝から持ち上げた。
金棒は重い。重さは現実だ。甘さの幻みたいに、ふわふわしない。
持てば、筋肉が痛む。痛むから、今ここにいるとわかる。
握り直す。
掌に馴染む。
瓢箪に手を伸ばす。いつものように、酒気が微かに揺れる。出せる酒はたくさんある。
けれど、今回は“焼く酒”を選ぶ。
甘さに対抗するのは、火だ。
甘さを甘いまま終わらせないための火。
――火を準備する。
頭の中で、酒技の名前が並ぶ。
《火走槌》で道を作る。地面を擦って火花を走らせ、蜜網を焼き、逃走路を切り開く。
《灼酔回天》で周囲を制圧する。酒気を円環状に撒き、遅れて燃える火で蜂群を散らす。
《蜂酔崩し》は、拘束されたときのため。蜜網に捕まったままでも、自分の酒気を一点集中で爆ぜさせて内側から破る。
そして、必要なら――《燻酔結界》。
引火させずに燻す。焦げた酒気で香りを上書きし、判断を鈍らせるのは相手だけじゃない。こちらの心も落ち着かせる。甘さに飲まれないための、苦い煙。
わたしは金棒の頭を焚き火の近くへ寄せた。
当然、金属は熱を持つ。火は触れたものを変える。変えることは、壊すことと同じだ。
でも、壊すのは悪じゃない。
壊すことでしか、戻れないものがある。
森の奥から、また羽音が届いた。
ぶぅん。
甘い囁きみたいに、やさしく。
――また飲みたくなったら、いつでも来なさい。
あの声が、耳の奥に残っている。
わたしは目を閉じ、短く笑った。
「甘いのは嫌いじゃない」
誰に言うでもなく、呟く。
「でも――焼けない甘さは、毒だ」
焚き火が静かに揺れた。
火は前夜の顔をしていた。
まだ小さい。
まだ抑えられている。
でも、薪は十分にある。
わたしが選べば、燃える。
それが明日の戦いだった。




