甘美なる戦場
森へ踏み込んだ瞬間、世界の輪郭が甘さで曇った。
木々の間に差す光は細く、葉の影が幾重にも重なる。
目は開いているのに、遠近がぼやける。
霧じゃない。蜜の香りが、視界の判断そのものを鈍らせてくる。
「……森が砂糖漬けみたい」
わたしが呟くと、クラリスは剣の柄を強く握り直した。
「足元、気をつけて。地面が――」
言いかけた瞬間、草を踏んだ感触が“ぬち”と吸い付いた。
遅れて、足首に絡みつくものの冷たさ。
透明で粘る糸。
蜜網。
「っ……!」
反射で身体を引いた。
でも、引けば引くほど糸は伸びて絡む。
蜘蛛の巣に似ているのに、香りが違う。甘い。安心する匂いがする。
呼吸が深くなり、緊張の糸がほどけそうになる。
危ない。
これは、拘束と鎮静が一体になってる。
「伊吹さん、動かないでください!」
ミスティアの声が鋭い。
彼女は杖を掲げ、白い泡を地面へ撒いた。
《泡沫魔法・滑層:スリップフォーム》
泡が薄い膜になって蜜網の下へ潜り込み、ぬめりを増やす。
糸が地面から剥がれ、わたしの足がようやく自由になった。
「助かった。ありがとうミスティア」
「どういたしまして。……それにしてもここから先、同じ罠がいくつもあります。……進ませる気がありませんね」
進ませる気がない。
それはつまり、“正面から来い”という意味じゃない。“勝手に迷え”という意味だ。
森の奥から羽音がした。
ぶぅん、とひとつ。
次に、ぶぅん、ぶぅん、と数が増える。
木々の隙間に黒い点が浮かび、増えて、渦になった。蜂群。
いや、群れというより、意思を持った煙みたいだ。風に流されない。こちらの動きに合わせて、位置を変えてくる。
刺されれば痛いだけじゃすまないだろう。
羽音のリズムが胸の鼓動と噛み合ってくる。規則正しい振動が思考をゆっくりにする。
甘さと羽音で人間の速度を落とす戦い方。
「来る!」
クラリスが前へ出た。剣閃が走る。蜂が散る……はずなのに、斬った感触がない。刃が風を切っただけで、蜂群はわかれた瞬間にまた形を戻した。
物理の壁とは違う。
数と圧で、わたしたちの足を止める環境に近い。
「焼く……?」
わたしは反射的に《酔鬼ノ号哭》へ手を伸ばしかけた。
火で甘さを焼く。蜂群も焼く。最短で確実だ。
でも――次の瞬間、前方の木立から人影が現れた。
村人。
男も女も、老人も若者もいる。
手には農具。鎌。斧。石。武器になり得るものを当たり前みたいに持っている。
そして、顔は――穏やかだった。
怒りも憎しみもない。にこにこしている。
その笑顔のまま、彼らは道を塞いだ。
「蜜をもらうには」
「あなたたちは邪魔」
声は優しい。叱る時の先生みたいな口調で、当たり前の事実を告げる。
蜂群が村人の背後にまとわりつく。
王の護衛が兵の背中を押しているみたいに。
「……っ」
喉が詰まる。
火は出せない。
火を出した瞬間、村人が巻き込まれる。
蜂群は霧みたいに広がって、炎は必ず“壁”へ回る。
そこに立っているのは、敵じゃない。
村人――被害者だ。
「これじゃ……火を出せない……!」
声に出した瞬間、自分の無力が胸に刺さった。
クラリスも動けない。剣を構えたまま、足が止まっている。斬れば彼らは倒れる。斬れば楽になる。だけど、斬ったら戻らない。
ミスティアが歯を食いしばる。
「泡で押し返すことはできます。でも、村人さんごと……」
「駄目だ」
レオニスの声は低い。医療者としての断言だった。
「村人を傷つければ、こちらが“侵略者”になる。蜜蜂隊長はそれを望んでいる。治療の余地が消える」
蜂群がさらに濃くなる。羽音が重なって、耳の奥が痺れる。
村人の足取りが揃っていく。誰も躊躇っていない。ただ、当然のように近づいてくる。
わたしは《酔鬼ノ号哭》を下ろしたまま、後退した。
――その時。
列の端にいた少年が、ふらりと足を止めた。
村人たちの“当然”の流れから、一瞬だけ外れる。
目が泳ぎ、口元が震える。甘さに溺れきっていない、ほんの小さな抵抗。
「……やだ」
小さな声。
すぐ隣の大人が少年の肩を掴んだ。優しく。優しく、逃げ道を塞ぐ。
「大丈夫だよ。女王様が守ってくれる」
その言葉で、少年の瞳が曇る。笑顔が戻る。檻が閉まる。
――今だ。
フィオラがすっと前へ出た。
医療者とは思ないほどの俊敏な動きだ。
彼女は少年の腕を掴み、甘さを断ち切るように、強い匂いの薬包を鼻先へ当てた。
少年が咳き込む。
次に目がぱちぱちと瞬く。
「……え……?」
ほんの数秒、檻の外へ出た顔。
フィオラは迷わず少年を背に回し、レオニスがその肩を支えた。
「離脱する。伊吹、クラリス、前を押さえろ」
わたしは頷いて、金棒を構え――直前で止めた。殴れない。殴れば簡単にことが解決する。
でも、それは目的じゃない。
代わりに、地面を強く踏み鳴らした。衝撃で蜂群が一瞬揺れる。
クラリスが剣を横に薙ぎ、牽制だけで距離を作る。
刃は村人へ向けない。空間を切って、近づく意志を止める。
ミスティアが泡を厚くした。
《泡沫魔法・零式:エアボム》
小さな破裂が、足元の蜜網を吹き飛ばす。
蜂群が散り、村人の列がわずかに乱れる。
乱れた瞬間、甘さが薄くなる。彼らの動きに“個”が戻りかける。
その瞬間を狙って、わたしたちは後退する。
でも、すぐに羽音が重なる。
ぶぅん。
ぶぅん、ぶぅん。
村人の顔が、また同じ表情になる。安心。充足。委ねる快楽。
「……追ってきませんか?」
ミスティアが息を切らしながら言った。
「追ってきてるよ」
わたしは振り返らずに答えた。
追ってくるのは村人だけじゃない。森そのものだ。どこへ逃げても甘さがついてくる。
蜜網が絡む。蜂群が視界を曇らせる。村人が壁になる。
わたしたちは何度か同じことを繰り返した。
罠を踏む。蜂群に包まれる。村人に塞がれる。
そのたびに、フィオラとレオニスが“引き剥がす”。甘さの中心から一人、二人と連れ出す。薬臭い刺激で意識を戻し、抱えて離脱する。
救える人数は少ない。
救うほど、森が反応する。
救うほど、蜂群が濃くなる。
救うほど、村人の壁が増える。
戦えば戦うほど、村が壊れる。
森の外へ戻った頃には、空は夕方の色に傾いていた。
甘い匂いはまだ鼻の奥に残っている。舌の根が、蜜を求めてしまう。飲んでいないのに。
連れ出した少年は、焚き火の近くで毛布にくるまっていた。
目はまだ不安定で、何度も森の方を見る。甘さを恋しがる視線。
フィオラが水を飲ませ、レオニスが脈を取る。
「……戻るのは時間がかかる」
レオニスが静かに言った。
「だが、戻る。意思は残っている」
フィオラが頷く。
「ただし、近づけばまた引き戻される。甘さは距離で作用してる。香り、音、……蜜網。全部が環境そのものだ」
クラリスが地面を蹴った。
「じゃあどうするの。巣へ行くには森を抜けるしかない」
「正面は無理かな」
わたしが言うと、みんながこちらを見た。
《酔鬼ノ号哭》を膝に置いた。金棒はずしりと重い。今まで数多くの敵を殴ってきた重みだ。
でも、今日ばかりは、その重さが頼りにならなかった。
「蜜蜂隊長は出てこない。村人を盾にして、森を武器にして、わたしたちを削る。火を出せない状況を作ってる。……この戦場、最初から“選べない”ようにできてる」
ミスティアが小さく唇を噛む。
「わたしの泡も、押し返すだけで終わります。根っこに届きません」
フィオラが目を伏せる。
「引き剥がしはできる。……でも、戦線全体は支えられない。救えば救うほど、反応が強くなる。逆に言えば、相手は“支配の深さ”を増やせる」
レオニスは焚き火を見つめ、結論を落とした。
「戦線膠着。このまま森で消耗すれば、村が先に壊れる。蜜蜂隊長を表へ引きずり出すか、巣の最奥へ一気に通す策が必要です」
森の方から、かすかに羽音が届いた。
姿は見えない。
でも、確実に“見られている”。
わたしは息を吐いた。甘さが肺の内側に残って、胸を軽くしようとする。
この戦いは甘美だ。
苦痛を消し、怒りを溶かし、選ぶことを奪う。
優しい形をした戦場。
――だから、正面から殴り合うだけじゃ勝てない。
「正面決戦は不可」
わたしは言い切った。
「……次は壊す覚悟を決めるしかない」
焚き火が小さく爆ぜた。
その音だけが、甘さの中で妙に現実的だった。




