依存の檻
村の外縁に張った仮の野営地は、夜になると余計に甘い匂いが濃くなる。
火を焚いても、煙が蜜に巻かれていくみたいに重い。
鼻の奥に、舌の根に、じわりと残る“安心”。嗅いだだけで胸が軽くなるのが、腹立たしい。
「……匂いだけで、酔いかけてる気分だよ」
わたしが言うと、クラリスは苦い顔で肩をすくめた
「飲んでもいないのに、身体が楽になる。……気味が悪いわね」
ミスティアは口元を袖で覆い、周囲に薄い泡を散らす。匂いを遮るための簡易結界だ。
泡は白く、すぐにしぼむ。それでも少しだけ、甘さが薄まる。
医療チームの二人――レオニスとフィオラは、焚き火の反対側で小さな帳面を広げていた。
昨夜から、村は変わっている。
正確には、“変わり始めている”。
蜂蜜酒が村の外へ流れた。それだけで、甘さは檻になった。
朝。野営地の見張りから戻ると、街道の方に小さな列ができていた。
行商人。狩人。近隣の村の若者。旅の途中で立ち寄ったような身なりの者までいる。みんな共通して、顔が柔らかい。笑っている。目がとろんとしている。危険な場所に来たはずなのに、肩の力が抜けきっている。
そして彼らは、同じ言葉を口にする。
「少しでいいんだ」
「一杯、いや、舐めるだけでも」
「……あれがあると、心が静かになるんだよ」
村へ入る許可を求める声は低く、懇願近い。争う気配がない。押し合いへし合いもない。ただ、順番を守って、にこにこしている。
争いが減ってる。
それは、たしかに事実だった。
甘さは暴力を消す。代わりに、意思を溶かす。
人が“自分で決める”ための刃を、丸めてしまう。
「配給が始まってる」
フィオラが淡々と告げた。
わたしたちは森の縁、村へ続く小道の影から様子を見ていた。村の中心へ向かう広場の一角に、木箱が積まれ、そこに村人が集まっている。
前回見た“貢物の列”とは別だ。列の先には、蜂蜜酒が入った小さな瓶が並んでいた。
瓶は同じに見えるのに、渡し方が違う。
村人たちは、腕や首に薄い布を巻いている。色が違う。白、黄、金。階級のとうに見える。
白い布の者は、掌に少しだけ注がれる。舐める程度。黄は小瓶を一本。金の布の者は、蜂の紋が刻まれた瓢に満たされるほど。受け取った瞬間、彼らの顔は花が開いたみたいに緩む。
「忠誠が可視化されてる……」
クラリスが吐き捨てるように言った。
配給を仕切るのは、村人だった。蜜蜂隊長本人ではない。にもかかわらず、皆が彼らに逆らえない。配給係は笑顔で、穏やかな声で、優しく“選別”している。
「今日はここまでだよ。次は、女王様に喜んでもらってからね」
「心配しなくていいよ。女王様は見てるから」
見張り役がいる。
列の周囲に立つ数人の村人。目が同じだ。
ただ、監視のための視線。誰かが列から外れようとした瞬間、そっと肩に手が置かれる。力は強くないのに、拒むという発想を奪っていく。
「余計なこと、考えなくていいよ」
誰かが、囁く。
「女王様が全部決めてくれる」
その言葉が合図みたいに、周囲の人間が同じ表情になる。安心。充足。委ねる快楽。
……檻だ。
しかも、鍵は外からじゃない。中にいる人間が自分で閉めてる。
昼過ぎ、医療チームは“診察”という形で村人に接触した。怪我を装って近づいたわけじゃない。真っ当に「外から来た治療者だ」と名乗った。
驚くほど簡単に受け入れられた。
だって村人は誰も警戒していないから。
不安という機能が削れているから。
診療小屋に集まった村人たちは、笑顔のまま症状を語る。
「最近、よく眠れるんだ」
「嫌な夢を見なくなった」
「怒るのが面倒になったよ。だって、平気なんだもん」
フィオラは脈を取り、瞳孔を確認し、舌を見た。レオニスは骨格と筋肉の状態を確かめた。身体は健康だ。むしろ、良い。
でも。
「断ってみてください」
フィオラが優しく言った。
「今日は蜜を飲まない。……それだけでいいです」
村人は一瞬だけ、きょとんとした。
次の瞬間、笑顔が薄く剥がれた。
目が泳ぐ。呼吸が浅くなる。指先が震え始める。
「……え?」
「どうして?」
「飲まない……? そんなの、意味がないよ」
言葉が早くなる。口角が引きつる。胸を押さえる。何かから逃げようとするように、椅子から立ち上がりかけて、また座る。
その反応は“渇き”とは違う。
酒の中毒とは質が違う。
酒が切れて身体が痛むんじゃない。蜜が切れて心が剥き出しになる。
フィオラは小声で、わたしたちにだけ聞こえるように言った。
「これは“中毒”じゃない。幸福が切れた反動……。本来、抱えていた不安が、まとめて噴き出してる」
その言葉通りだった。
「怖い……」
「胸が、落ちる……」
「誰か……女王様……」
村人は泣きそうな顔で扉の方を見た。助けを求める先が、家族でも友人でもない。支配者だ。
レオニスが、声を低くする。
「依存の対象が“人”になっている。……危険だ」
それでも村人たちは、治療を拒まない。拒めない。なぜなら“拒む”という概念が弱っているから。
そして、次に起きたのは――見せしめだった。
夕方。広場の奥で、騒ぎが起きた。
わたしたちは気配を消して近づいた。
人だかりの輪の中心に、若い男が膝をつかされている。両腕は背中で縛られ、足首も紐でまとめられていた。
顔は青い。呼吸が荒い。汗で額が濡れている。
周囲の村人は、誰も怒っていない。
笑っている。
異常な光景だ。
「どうして、そんなことするの?」
縛られた男が震える声で言う。
「……飲まないって言っただけだろ。一日、我慢したいって……」
輪の外側にいた配給係の女が、ゆっくりと首を傾げる。
「我慢? どうして? だって、苦しいでしょ」
彼女は壺を持っていた。蜜の色が透ける陶器。
蓋を開けると、甘い匂いが一段濃くなる。人だかりが息を吸った。
配給係は、縛られた男の口元に小さな匙を差し出す。
「ほら。女王様の蜜。飲めば、楽になるよ」
男は首を振った。必死に。
「……やめろ。やめてくれ、頼む……!」
その拒絶に対して、村人たちは悲しそうな顔をした。怒らない。責めない。代わりに、哀れむ。
「かわいそう」
「苦しいんだね」
「でも、大丈夫だよ。すぐ、元に戻るから」
数人が男の顎を押さえ、口を開けさせた。力任せじゃない。丁寧で、手慣れている。日常の作業みたいに。
匙から蜜が流れ込む。
男の喉が鳴った。反射で飲み込んでしまう。
次の瞬間。
男の肩が落ちた。
目が潤んだ。
そして――泣きながら笑い出した。
「あ……はは……よかった……よかった……」
さっきまでの恐怖が嘘みたいに消えていく。顔が蕩ける。涙と笑顔が同居する。
人としての抵抗が甘さに溶ける。
周囲の村人は拍手した。
「戻ったね」
「よかった」
「これで、また女王様に愛される」
わたしは奥歯を嚙みしめた。
これが“処罰”。
痛めつけない。折らない。壊さない。
ただ、甘さで矯正する。
残酷すぎるほどの見せしめ。
「……見たか」
レオニスが隣で低く言った。
拳がわずかに震えている。彼は感情に流されない男だ。
現実主義で冷たい判断をする。その彼が震えている。
「治療で止められる段階を越えている。これは――支配だ」
フィオラが唇を結んだまま、頷く。
「自然を使った、完全な支配。依存の設計が巧すぎる……優しさの形をしてるから、本人たちが気づけない」
縛られた男を見た。
笑っている。泣いている。救われた顔で、また檻に戻っていく。
胸の内に、冷たい理解が落ちる。
この甘さは救いじゃない。
甘さは秩序を壊す。
いつか供給が揺れた瞬間、彼らは“幸福を取り返す”ために、何だってする。
そして、その時一番壊れるのは――自分自身だ。
「……殴る理由はもう十分だ」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
怒りは燃えている。でも、火は暴れない。腹の底で、芯になってる。
クラリスが、わたしを見た。真面目な目で。
「伊吹。……村人は敵じゃない」
「わかってる」
わかってる。だからこそ、腹が立つ。
敵じゃない人間が、敵の形をさせられている。笑顔のまま、他人を縛る。救われた顔で、檻を勧める。
ミスティアが小さく呟いた。
「……女王蜂の巣ですね。外から見たら美しいのに、中は……」
レオニスが立ち上がり、わたしたちを順番に見る。
「蜜蜂隊長を止める。優先順位はそれが最上位だ。村の治療は、その“後”だ」
フィオラが静かに言葉を重ねる。
「止めるまで、依存は広がる。そして広がった分だけ、治療が長引く」
わたしは《酔鬼ノ号哭》の柄に手を置いた。
金棒は冷たい。だけど、わたしの掌は熱い。
金棒もだんだんと熱を帯びいく感覚がある。
甘さを壊すのは、心苦しい。
救われていたものが剥がれるから。
でも――剥がさなければ治せない。
もう一度、広場の男を見る。
泣きながら笑う顔。
あの笑顔を、幸福だと呼ぶのは簡単だ。
だけど、あれは“選ばされた”幸福だ。
なら、わたしがやることは決まっている。
「……行こう」
わたしは言った。
「女王様の巣へ」
甘い檻の鍵を、叩き折るために。




