甘さの代償
村から離れても、鼻の奥に甘さが残っていた。
膜を張って吸い込みを減らしたはずなのに、あの匂いは皮膚の内側に染み込むみたいにしつこい。
思い出すだけで胸がふっと軽くなる――その反射が気持ち悪い。
森の外れにある小さな街道宿へ戻ったとき、最初に目に入ったのは行商人の荷台だった。
布をかぶせた樽。木箱。笑い声。人だかり。
「……あれ、まさか」
クラリスの声が低くなる。
わたしも同じものを嗅ぎ取った。花でも果実でもない、安心の匂い。
露店の前で、狩人風の男が小さな瓶を受け取っていた。掌サイズ。ほんの一口分。
それでも、男は宝物みたいに胸に抱え、震える息で栓を嗅いだ。
「それ、どこで手に入れたの」
わたしが声をかけると、男はにこりと笑った。
警戒も、怒りもない。あるのは「よかったね」という顔。
「森の近くの村さ。女王様がくれる。少しでいいんだ。少しあれば……今日が楽になる」
「対価は?」
「はは、固いなぁ。そんなの、いろいろだよ。金だったり、道具だったり。余ってるものを持っていけばいい」
余ってるもの。
生活の中にあるものは余りじゃない。必要だからそこにある。
でも、その甘さに触れた瞬間、人は「余ってる」と言い換えてしまう。
レオニスが露店に近づき、樽を覗いた。売り手の行商人は、笑顔で胸を張る。
「へへ、これで争いが減るんです。みんな優しくなる。酒が人を救うって、こういうことなんでしょう?」
「……救っているのは“優しさ”じゃない」
レオニスの声が冷えた。
行商人は首を傾げたまま笑った。
「旦那、難しい顔をして。飲めば分かりますよ。ほんとに、良い日になりますから」
「飲まない」
その一言は刃物みたいに硬かった。
行商人は傷ついた顔をするでもなく、ただ「もったいない」と言いたげに肩をすくめた。
宿の裏手に、簡易の治療区画があった。
ギルドの出張所が街道の安全確保のために設けたものだ。負傷した冒険者や旅人が、最低限の処置を受ける場所。
そこに――穏やかすぎる人々が集まっていた。
笑っている。
静かに順番を待っている。
互いに譲り合い、丁寧に礼を言い合う。
これだけ見れば、理想的な光景だ。
なのに、それを見るわたしの胸は重い。
「争いが減ってる。……それでいいはずなのに」
独り言が漏れる。
クラリスは頷き、拳を握った。
「“優しい”のに、目が空っぽだ。あれは……」
「判断機能が鈍っている」
フィオラが淡々と言う。
彼女はここに集まった人々を、一人ずつ診ていた。脈、瞳孔反応、呼吸。皮膚。
医療の手つきは冷静なのに、眉間だけはわずかに寄っている。
診察椅子に座った中年の男は、笑いながら言った。
「先生、私、最近ずっと良いんです。よく眠れる。腹がまったく立たない。妻とも喧嘩しない。ほら、最高でしょう?」
フィオラは頷きも否定もしない。
「蜂蜜酒を飲んでいますね」
「はい。ちょっとだけ。ほんのちょっとでいいんです」
「飲まない日があると、どうなりますか」
男は一瞬だけ考え、そして困ったように笑った。
「……胸が寒い。怖いんです。理由がないのに怖い。だから、また少し」
フィオラは視線を落とし、ペンを走らせる。
「身体的な毒性はほぼゼロ。肝も腎も、急性の異常はない。……なのに、精神が引き裂かれている」
レオニスが腕を組んだ。
「依存だな」
「中毒とは少し違う」
フィオラの声は静かで、だからこそ重かった。
「これは“中毒”じゃない。幸福が切れた反動に近い」
言葉が胸に落ちた。
幸福が切れた反動。
つまり、幸福そのものが“薬”になっている。
薬は効いている間だけ、優しい顔をする。
効かなくなったら――
レオニスは治療区画の外を見た。
そこには、蜂蜜酒の小瓶を手に入れられなかった人がいた。笑っていない人。
口元だけ笑おうとして、目が焦っている人。
「断酒させた場合は?」
「禁断症状というより、感情の噴出と言った方が近い。不安、焦燥、恐怖、怒り……本来あるべきものが、まとめて襲ってくる。本人は“壊れた”と思うでしょう」
「……壊したのは、酒なのに」
クラリスが吐き捨てるように言う。
その日の夕方、答え合わせみたいな惨事が起きた。
宿の倉庫が荒らされた。
小麦粉、干し肉、保存酒、火打ち石、布。
生きるためのものが散乱し、床には泥の足跡がついていた。
倉庫番の老人が震えながら言った。
「蜂蜜酒を持ってるって噂が……。違うって言ったんだ。うちは持ってないって。なのに、笑ってた……笑いながら、扉を壊した」
笑いながら。
聞いた証言と同じだ。怒らずに奪う。奪っている自覚がない。
外で叫び声がした。
街道宿の広場。人だかり。押し合い。
わたしたちが走ると、そこには“穏やかな暴力”があった。
男が女の腕を掴んでいる。
女は泣きながら笑っている。
周囲は止めない。止めないどころか、みんな同じ顔で言う。
「分けてよ」
「少しでいいんだよ」
「女王様の蜜、あるんでしょう?」
女が首を振る。だが言葉が追いつかない。恐怖で喉が詰まっている。
その瞬間、男の顔が歪んだ。
笑顔のまま、声だけが割れた。
「返せ……!」
何を返すのか。
最初から、女は持っていないのに。
男は怒っているのではなく、“戻りたい”のだ。
「元に戻りたいだけだ!」
叫びは広場全体に伝染した。
ひとつの火種が、乾いた薪に落ちたみたいに。
誰かが店の棚を倒した。
誰かが荷台を引きずった。
誰かが石を投げた。
そしてその全員が、泣きながら笑っていた。
甘さが、秩序を壊し始める。
レオニスが前へ出た。
声を張る。医師の声。戦場でもよく通る声。
「離れろ! 怪我人を作るな!」
しかし、言葉が届く前に、群衆が彼を押し返そうとした。
怒りではない。焦りでもない。欠乏。
甘さの欠乏だ。
クラリスが剣の鞘で地面を強く叩いた。音が鳴り、何人かが一瞬だけ止まる。
だが止まったのは、“叱られたから”じゃない。音にびっくりしただけだ。叱られる子どもがいない世界で、叱責は力を失う。
ミスティアが泡を広げた。
人の足元に薄く膜を敷き、転倒を防ぐために速度を落とす。戦う泡じゃない。止める泡だ。
フィオラが女の腕を引き、脈を取りながら囁いた。
「深呼吸して。今は匂いを吸わないで。ここに戻って」
女は目を見開き、息を吐いた。吐いた瞬間、笑顔が崩れた。
代わりに出てきたのは、ひどく生身の恐怖だった。
「……こわい……」
それが本当の声だ。
甘さが覆っていた、いつもの感情。
わたしは金棒を握りしめた。握る手が震える。
蜂蜜酒が広がれば、争いは一時的に減る。
優しくなる。穏やかになる。
でも、それは“自分で立っている優しさ”じゃない。借りた幸福だ。
借りた幸福は返済のときに利子を取る。
切れた瞬間に地獄が来る。
わたしは、荒れた光景を見回した。
奪う人、奪われる人。どちらも被害者だ。
そして、その中心にいない者がいる。
森の奥。見えない女王。
笑顔のまま人を壊す、甘い支配者。
胸の奥で、何かが固くなった。
迷いが“理由”の形になる。
「これは救いじゃない」
声に出すと、甘さの残滓が少しだけ剥がれた。
「“奪われたあと”が地獄になる。そんなのは救いじゃない」
レオニスがこちらを見る。
フィオラが唇を噛む。
クラリスが静かに頷く。
ミスティアは泡を維持したまま、疲れた目で空を見た。
わたしは金棒《酔鬼ノ号哭》を肩に担ぎ直す。
殴るためじゃない。決めるために持ち直す。
蜜蜂隊長を止めなければならない理由が確定した。
村のためでも、街道のためでもない。
甘さに殺される前に、人が自分の足で立てる世界を取り戻すためだ。
甘いのは嫌いじゃない。
でも――焼けない甘さは毒だ。
次の戦いの匂いを嗅いだ。
焦げた匂い。
まだ存在しないけれど、必要になる匂い。
その匂いを作る覚悟だけが今のわたしの中で、はっきり燃えていた。




