女王と兵隊蜂
森へ戻る足取りは、正直に言えば重かった。
戦場に向かう重さじゃない。
甘い匂いのほうへ、わざわざ自分から近づいていく――その気持ち悪さが肩に乗っている重さだ。
「遮断はできる?」
わたしがミスティアに聞くと、彼女は頷いた。
小さな泡を指先に生んで、息を吹きかける。泡は薄膜になって広がり、すぐに霧みたいな帯へと変わった。
「完全ではありません。でも、鼻と口の前に“膜”を作ります。吸い込みが減るだけでも、違います」
「ありがと。……甘さ、嫌いじゃないんだけどさ」
わたしが言うと、クラリスが苦い顔をした。
「嫌いになる甘さもあるからね。あれは“舌”の甘さじゃない。心臓に塗ってくる感じがする」
レオニスは前を見たまま、短く言った。
「目的は確認だ。戦闘は避ける。村人に手を出すな」
「わかってる」
わかってる。
でも、わかっていることと、できることは別だ。
村の入口が見えた瞬間、空気が変わった。
甘い。昨日より濃い。膜の向こうに、柔らかい毛布みたいな匂いが押し寄せてくる。
――安心する匂い。
その言葉が、わたしの脳裏で勝手に再生された。
胸が、ふっと軽くなる。肩の力が抜けそうになる。だからこそ、奥歯を噛みしめた。
「油断するな」
レオニスの声が釘を打つ。
フィオラは無言で頷き、わたしの袖口を軽く掴んだ。触れ方が、医療の人のそれだった。落ち着かせるための接触。
これもミレアの真似だろか?
村の中は相変わらず、幸福で満ちていた。
誰もが笑っている。働いていない。畑の鍬も、洗濯物も、途中のまま。なのに焦りがない。叱られる子どもがいない。
――いい。いい。いい。
全部が“いい”で塗り潰されている。
喉が渇く。口の中が甘くなり、水分が欲しくなる。舌が匂いだけで味を作っている。
「……異常ね」
クラリスが小声で呟く。
「異常でも、本人たちは救われた気分だ」
レオニスが淡々と返した。
救われた気分。
そう、気分だ。気分だけが全部を支配している。
――そのとき。
背中に、視線が刺さった。
わたしが振り向くより早く、村人たちが動いた。
音もなく、流れるように。笑顔のまま。
気づけば、わたしたちは囲まれていた。
農具。
錆びた鎌。
小さなナイフ。
石を握った子どもの手。
木の棒を持った老人。
誰も怒っていない。
眉間に皺も寄っていない。
ただ、当然のように、ここに立っている。
「……来客だ」
レオニスが言い、半歩前へ出た。
戦うための前じゃない。盾になるために前にでた。
村人の一人が、穏やかな声で言った。
「蜜をもらうには」
別の村人が、同じ調子で続ける。
「あなたたちは邪魔」
言葉が刃なのに、声が優しい。
そのギャップが、心を締め付ける。
「落ち着いて」
フィオラが治療の声で言う。
「私たちは争いに来たのではありません。怪我人の確認と――」
「女王様が見てるよ」
女の声。笑っている。
目は潤んでいる。泣きそうなのに、泣かない。幸福で満ちている。
「女王様の蜜、ほしいでしょ?」
その言葉に、わたしの胸が一瞬だけ、ふっと軽くなった。
――ほしい?
違う。
ほしいわけない。
なのに、脳が“ほしい”を考え始める。
「……っ」
わたしは奥歯を激しく噛んだ。痛みで現実に戻す。
クラリスが剣に手を伸ばしかけ、止めた。
相手は村人だ。敵じゃない。
でも――今、敵の顔をしていないだけで、敵の動きをしている。
村人たちは、じり、と距離を詰めてくる。
誰かが背後へ回り込み、逃げ道を塞ぐ。
目が合う。笑っている。
そのまま、手が伸びる。
「金を――」
「武器を――」
「献げるものがあるなら、今すぐ」
奪う言葉が、献げる言葉に聞こえる。
ここでは、略奪が“奉仕”だ。
「下がれ!」
クラリスが低く言った。
剣は抜かない。
けれど声には、剣と同じ硬さがあった。
村人たちは、首を傾げた。怒らない。理解しない。
理解する必要がないからだ。
「邪魔、しないで」
「蜜の時間なの」
「女王様が待ってる」
その瞬間、羽音がした。
森のほうから。近い。耳の内側を撫でるような高い音。
ミスティアが小さく息を呑む。
「来ます……!」
枝が揺れた。
木々の上、影が動く。
そこに――“あいつ”がいた。
獣人寄りの姿。人の形をしているのに、人ではない気配。
毛並みの色は木陰に紛れて分からない。ただ、肩から背にかけて、黒金の光が走って見えた。
足場の細い枝の上に立っているのに、揺れない。
その周囲を、蜂が輪を描いて飛んでいる。あれは群れではなく、従者だ。
あれが噂に聞く、魔王軍八酔将の蜜蜂隊長。
顔は笑っていた。
慈愛の笑み。村人と同じ“優しい笑み”。
なのに、目だけが違う。潤んだ幸福ではなく、冷えた確信があった。
「争わなくていい」
蜜蜂隊長の声は、甘さを含んで落ちてきた。
「甘くしてあげればいい」
村人たちが、同時に微笑んだ。
命令じゃない。祝福だ。祝福を受け取る顔だ。
背筋が冷えた。
“支配”は怒鳴らない。
怒鳴らないから、反抗の形が分からなくなる。
「お前が……女王か」
クラリスが言った。
蜜蜂隊長は肩をすくめる。
「呼び方は、なんでもいいよ。隊長でも女王でも。でも、女王様の方が甘いかな。みんな甘いほうが好きでしょう?」
その言葉が、わたしの胸に触れる。
触れた瞬間、軽くなる。
「……冗談じゃない」
わたしは金棒《酔鬼ノ号哭》に手を置いた。
握れば、殴れる。火を出せる。爆ぜさせられる。
周りの従者ごと焼くことが出来る。
でも――今は。
村人たちが前にいる。
盾ではないが、盾として“置かれている”。
蜜蜂隊長が、わざとらしく腕を広げた。
「ほら。みんな、幸せだよ」
村人が笑う。
子どもが笑う。
老人が笑う。
泣きながら笑う女がいる。
「この人たちを、壊すの?」
「壊す? 幸せにするのさ」
わたしは喉が鳴った。
金棒が重くなる。
甘さが身体にまとわりついている。
重い。振れない。
「これじゃ……倒せない」
言葉が漏れた。
わたしの中の現実が、その一言に固まる。
レオニスが、すぐに判断した。
「撤退する」
「でも――」
クラリスが言いかける。
「ここで戦えば、村人が死ぬ。死者は出せない」
レオニスの声は冷たい。
でも、今のわたしたちにはその冷たさが必要だった。甘さに対抗するための冷たさ。
フィオラが前へ出た。
「あなたたちは病気です」
村人たちは、理解しないまま笑った。
「病気じゃないよ。幸せだよ」
「女王様がくれたの」
フィオラは歯を食いしばり、次の言葉を飲み込んだ。
医療者は、相手の“幸せ”を否定することで生まれる痛みを知っている。
それでも、否定しないと救えない時がある。
ミスティアが、わたしの腕を引いた。
「伊吹さん。泡、いきます」
「……お願い」
ミスティアは両手を広げ、泡を爆発的に生んだ。
《泡沫魔法》の霧が、地面を這うように広がる。白い膜が村人の足元を包み、視界を奪う。
「なに、これ――」
「ふわふわする……」
村人たちは怒らない。困ったように笑いながら、足を取られる。
笑顔のまま、転ぶ。
転んだことすら笑顔で流す。
その隙に、レオニスが背中を押した。
「行け」
クラリスがミスティアを庇うように前へ立ち、剣の鞘で地面を叩いた。威嚇。殺さない威嚇。
「近づくな!」
村人たちは首を傾げる。
怒りがないから、威嚇が通じない。
それでも泡の膜が視界を乱し、動きを鈍らせた。
わたしたちは走った。
森へ。甘さの中心から離れるように。
背後で、羽音が高くなる。
追ってくる蜂。追ってくる声。
蜜蜂隊長の声は、最後まで優しかった。
「また飲みたくなったら」
その言葉だけで、胸が軽くなる。
軽くなるのが、恐ろしくて、走る速度を上げた。
「いつでも、来なさい」
森の外へ飛び出した瞬間、風が変わった。
甘さが薄くなる。膜の向こうの匂いが、やっと現実に戻る。
土の匂い、草の匂い、汗の匂いがする。
わたしは立ち止まって、息を吐いた。吐いた息が、甘くない。
それだけで涙が出そうになる。
クラリスが拳を握り、震える声で言った。
「……卑怯だ。人を盾にするなんて」
「盾じゃない」
レオニスが言う。
「兵隊だ。自分から守りに来ている。だから余計に厄介だ」
「……次は、もっと強く遮断します。泡だけじゃ足りない」
ミスティアが頷いた。
「匂いを“上書き”する必要があります。別の匂いで。焦げた匂いとか……」
わたしは金棒を見下ろした。
《酔鬼ノ号哭》。
火を生む技はある。火酔爆。烈酒爆破。酔酩爆裂。
でも、火を出せば村人が燃える。傷つけてしまう。今のままじゃ、火は使えない。
「……わかった」
わたしは言った。
甘さが薄れた世界で、やっと考えられる。
「まず、村人を前線から外す方法を作る」
殴るのは、そのあとだ。
女王と兵隊蜂。
その構図を壊さないと、わたしの金棒は振れない。
森の奥で、羽音がまだ聞こえる気がした。
聞こえるたびに、脳が“甘さ”を思い出そうとする。
――また飲みたくなったら。
わたしは唇を噛んだ。
飲みたくなる前に、止める。
甘さは、救いじゃない。
借り物の幸福は、最後に地獄を連れてくる。
その確信だけを胸に、わたしたちは次の手を探すために歩き出した。




