蜂蜜酒の正体
村を出た瞬間、肺がやっと“普通の空気”を思い出した。
甘さは追ってこない。なのに、舌の奥にまだ残っている気がする。舐めたわけじゃないのに、脳が勝手に「あれ」を思い出そうとする。
――また飲みたくなったら。
あの声。蜂の羽音に混じって、確かに聞こえた招待。
「……気持ち悪いな」
わたしが吐き捨てると、クラリスが頷いた。
「香りだけで、頭を撫でられる感じがするわね。戦場で麻酔を撒かれたみたい」
ミスティアは、掌に小さな泡を作っては潰し、潰しては作り、落ち着かない手つきで繰り返している。
「匂いの粒子、まだ衣服に付いてます。泡で洗浄しても、完全には……。繊維にまで染み込むタイプです」
レオニスは焚き火も起こさず、まず地面に布を敷いた。
フィオラがそこに瓶を置く。村で“差し出されかけた”蜂蜜酒――結局、飲まずに預かった一本だ。
村人は嬉しそうに渡した。「女王様の蜜だから」と。
その言い方も、今思い出すと寒気がする。
フィオラは小刀で蝋封を切り、瓶口に布を当て、匂いだけを慎重に吸った。顔色は変えない。
けれど、瞳孔の揺れが小さくなる。
「……香気成分が強い。酒精だけじゃない。蜂蜜由来の糖と、花粉系……それに、微量の樹脂。森の植物を発酵に混ぜてる」
彼女は携行袋から、薄い紙と試薬瓶を取り出した。
医療チームの装備は“異常を見抜く”ための道具が揃っている。
フィオラは蜂蜜酒を一滴だけ採り、紙に垂らす。
試薬を落とし、色の変化を見たあと、今度は別の紙に匂いを移して、手早く折り畳んだ。
「多幸感誘発成分がある。摂取すると神経の興奮を弱めて、安心だけを残すタイプだ」
クラリスが眉を上げる。
「つまり……酔う?」
「酔いに似てるけど、違う」
フィオラは淡々と言い切った。
「普通の酒は、気分を揺らす。陽気にもなるし、悲しくもなる。これは揺れを切り落として、“幸福だけ”を作る」
ミスティアが小さく息を飲んだ。
「感情の偏り……」
「判断力を鈍らせる。危険を危険と感じにくくなる。依存性もある。断ったときには強い渇望が出るはず。禁断症状ってやつね」
「禁断症状」
嫌な響きだ。
わたしは瓶を見た。黄金色が焚き火のない闇でも光って見える。嫌な輝きだ。
「毒は?」
レオニスが短く聞く。
フィオラは首を横に振った。
「身体的毒性はほぼゼロ。肝臓を壊すような成分も、即効性の麻痺もない。むしろ、体調は良くなる可能性があるくらい」
「薬にもなるってこと?」
クラリスが苦い顔をする。
「厄介ですね」
ミスティアも深刻な表情になる。
悪いものなら、分かりやすい。吐けばいい。止めればいい。
でも、これは止めにくい。
フィオラが、静かに言った。
「“優しい毒”ね」
その言葉が夜気に落ちて、重く沈んだ。
「壊さない。だからこそ、止まらない」
レオニスは焚き火を点けないまま、わたしたちを見回した。
「確認する。全員、口にしてないな」
「してない」
わたしは即答した。喉が微かに熱い。匂いだけでこれなら、飲んだらどうなる。
クラリスも頷き、ミスティアは泡を指先で弾いてから口を開いた。
「飲んだ人の目……同じでした。泣いてるのに、苦しくない目みたいな」
レオニスは短く息を吐いた。
「なら、まだ戦える」
その言い方が冷たいのに、救いだった。
翌朝、まだ薄暗いうちに、わたしたちは森の外縁を回って村の“外側”を調べた。
正面から入れば、また甘さに包まれる。
必要なのは情報だ。敵の位置。被害の範囲。供給路。
そして――もう一つ。
「襲われた形跡があるはず」
フィオラの言葉通り、森の外れにそれはあった。
倒れている男。
ギルドの職員だ。胸元の徽章が泥に汚れている。息はある。脈も安定している。
けれど、腰の袋が破れて空だ。剣もない。財布もない。指輪まで抜かれている。
「……生きてる」
わたしが言うと、クラリスが地面の跡を見た。
「引きずられた痕。抵抗は少ない。殴り合いじゃないわね」
フィオラが膝をつき、職員の瞼を持ち上げる。
「瞳孔反応……正常。軽い打撲。気絶させられた程度です」
レオニスが周囲を見回す。
「誰がやった」
答えは、地面に落ちていた。
木の葉に、黄金色の粘り。甘い匂いが、風に乗って一瞬だけ蘇る。吐き気がするほど、安心しそうになる匂い。
ミスティアが泡を薄く広げ、職員の頬を叩いた。
泡が弾ける冷たさで、男がうっすら目を開ける。
「……う、ぐ……?」
「聞こえますか」
フィオラの声は柔らかい。たぶんミレアの真似だ。
職員は焦点の合わない目で周りを見て、やっと現実に気づいたのか、喉を鳴らした。
「……ここ、は……?」
「森の外れです。あなたは襲われました。覚えていますか」
職員は少し考えるように瞬きをしてから、首を小さく振った。
――いや、違う。恐怖を否定するみたいに振った。
「……怒りじゃなかった」
その言葉が最初に出た。
「え?」
わたしが聞き返すと、職員は唇を震わせた。
「笑ってたんです。……みんな。村人が。囲んで……笑いながら……」
その“笑い”を思い出した瞬間、職員の目に涙が滲んだ。怖かったんだろう。怒鳴られたほうがまだ救いだったのだろう。
「“あなたは邪魔”って……そう言われました。優しい声で。……優しいまま、剣を取られて、金を取られて……」
クラリスが拳を握る音がした。
「盗賊と同じことを、笑いながらやる……最悪ね」
職員は息を荒くし、最後に呟いた。
「女王様に、献げるって……」
フィオラが頷き、そっと額に手を当てた。
「休んでください。今は話さなくていい」
職員は意識を手放した。眠りに落ちるみたいに。
レオニスが、森の方向を見た。
「確定だ。村人が実働部隊になっている」
「でも、全員が同じ状態じゃないと無理でしょ」
わたしは言いながら、嫌な想像をした。女王蜂。兵隊蜂。蜂の巣。
フィオラが別の紙束を取り出した。ギルドで得た記録だ。
ここへ来るまでに、周辺で行方不明になった冒険者の一覧があった。
「これ……数日前に、調査で入った一団」
レオニスが目を細める。
「帰ってないのか」
「帰還報告なし。だけど、遺体もない」
ミスティアが紙を覗き込み、声を落とした。
「……みなさん夜に襲われてるらしいですね。」
わたしは背中が冷えた。嫌な想像が止まらない夜の森。視界が悪い。羽音が近づく。
クラリスが苦々しく言う。
「冒険者狩り、だな」
その言葉にフィオラが首を振った。
「“狩り”というより……排除だ。邪魔なものを、笑って取り除く」
わたしは記録の余白に書かれていた証言を読んだ。
生き残りが一人だけいたらしい。
偶然逃げた、臆病者と笑われた男の記録。
――夜、蜂の羽音。
――村人が一斉に襲いかかる。
――目が同じ。
――全員、同じ目だった。
文字が紙から浮き上がって、脳に刺さる。
同じ目。潤んでいる。幸福で満ちている目。
それは、兵隊蜂の目だ。
女王を守るために、自分の命も他人の命も、同じ軽さで差し出す目。
わたしは胃の奥が重くなった。
「……あの酒、村だけの問題じゃない」
漏れ出ている。運ばれている。少量でも、人を変える。笑って襲う人間を増やしている。
レオニスが、そこで初めて焚き火を起こした。小さな火だった。乾いた枝がぱち、と鳴って、炎が揺れる。
甘さとは逆の匂い。焦げた木の匂い。現実の匂い。
「これは治療以前の問題だ」
レオニスの声は低く、確定していた。
「意思が奪われている」
その言葉を聞いた瞬間、わたしは理解した。
腐蝕ソムリエのときも、村人は壊れていった。味覚を失い、感情を失い、“どうでもいい”に沈んでいった。
でも今回は、また違う。
幸福で埋めて、考える力を奪う。
笑わせて、抵抗を溶かす。
甘さで、支配する。
「……止めるしかないな」
わたしの声は、自分でも驚くほど硬かった。
お酒は好きだ。甘いのも嫌いじゃない。
けれど――焼けない甘さは、毒になる。
フィオラは蜂蜜酒の瓶に布を巻き、封を固くした。
「成分の詳細は、もっと調べられる。でも結論は変わらない。依存性のある多幸感……長く吸うだけでも、危うい」
ミスティアが小さく頷く。
「次に村へ入るなら、泡の遮断が必要です。匂いを吸わない道を作らないと」
クラリスが金棒《酔鬼ノ号哭》を見た。わたしの武器。わたしの“殴る理由”。
「……でも、私や伊吹は村人を殴れない。村人が前に出てくると、どうしても突破が難しくなる」
その指摘が喉に刺さった。
無抵抗の善人は殴れない。
たとえ抵抗されても殴ることは難しい。
わたしは森を見た。木々の影は静かで、羽音はまだ遠い。
でも、確実にいる。
姿を見せず、甘さだけをばら撒く支配者が。
「だから、準備する」
レオニスが言った。
「戦う準備じゃない。奪われた意思を取り戻す準備だ」
その言葉は医療の言葉だった。
わたしたちは頷いた。次に踏み込むとき、相手は“敵”じゃない顔をして襲ってくる。
笑いながら「邪魔」と言ってくる。
――それを、止めなきゃいけない。
甘い匂いの向こうで、誰かがまた蜜を落としている。
そんな気がして、わたしは無意識に拳を握り直した。




