甘い村
別の医療チームの情報によると、最近、多幸感にあふれている患者が後を絶たないらしい。
そして、どうやらその発生源は森の集落という情報もある。
ミレアと別れた、わたしたちと医療チームの二人は情報を基に件の森までやってきた。
焚き火の匂いが変わったのは、森が近づいたせいだと思っていた。
けれど――次の瞬間、鼻の奥に滑り込んできたのは、煙でも土でもない。
甘い。
花の香りみたいに軽くない。果物のように弾けもしない。もっと、深いところに沈む匂いだ。胸の底に溜まっていた緊張を、理由もなくほどいてしまう匂い。
「……甘い」
わたしが呟くと、横でクラリスが眉をひそめた。
「香草の類? いや……違うわね。甘すぎる」
ミスティアはローブの襟元を指で押さえ、空気を確かめるみたいに目を細めた。
「匂いが、肌に張り付く感じがします。……泡で洗っても落ちないタイプの」
最後尾を歩くレオニスは、表情を崩さないまま、短く言った。
「集落が近い。警戒を緩めるな」
その声はいつも通り冷たい。けれど、その冷たさが、逆にありがたいと思ってしまう。
甘さは、人を油断させる。
これまでの戦いでわたしはそう学んだ。
わたしたちは森の切れ目を抜けて、村の入り口に立った。
小さな村だった。家々は古く、柵は歪み、畑の土は痩せている。――それなのに、村全体が“満ちて”いる。
誰もが笑っていた。
笑い声が響くわけじゃない。大げさに喜んでいるわけでもない。口元が自然に上がっていて、目尻がゆるんでいて、そのままの顔で、ただ立っている。歩いている。座っている。
働いていない。
畑には鍬が投げ出され、干し草は途中で止まっている。井戸のそばに桶が置きっぱなしで、水があふれて小さな水溜りを作っていた。子どもがそれを踏んで飛び跳ねても、誰も叱らない。
叱られる子どもがいない。
怒る大人もいない。
村の中心にいる老人が、何かを落としても笑う。若い男が壁にもたれて昼寝をしていても、誰も咎めない。女たちはパンの生地をこねる手を止め、ぼうっと空を見上げている。
わたしは喉の奥が乾くのを感じながら、呟いた。
「……楽しそう、じゃない」
自分の声が、ここだけ少し浮いて聞こえる。
「“満たされきってる”」
足りないものがあるはずなのに。暮らしが楽なはずがないのに。なのに、誰も“欠け”を見せない。
怖い。
クラリスが、小さく息を吐いた。
「戦場より不気味ね……」
ミスティアが囁く。
「この空気、甘さで頭がぼんやりします。……意図的に作られてる匂いです」
レオニスは、村人の顔を一人ずつ見ていく。視線は淡々としているのに、眉間の皺だけが深くなっていく。
「症状の一致がある。……全員だ」
そのとき、わたしたちに気づいた村人が、ふわりと歩み寄ってきた。
若い女だ。頬が赤く、目が潤んでいる。泣いたあとじゃない。泣きそうなほど“幸せ”な目だ。
「旅の方?」
声まで柔らかい。包み込むように、こちらを歓迎する。
「よかったら、どうぞ。甘いの、ありますよ」
女が差し出したのは、小さな瓶だった。中身は黄金色。とろりと揺れて、光を抱く。お酒だと分かるのに、お酒の匂いとは少し違う。
蜂蜜そのものの甘さに、どこか森の温度が混ざっている。
瓶の口から立ち上る香りだけで、胸が軽くなる。
――危ない。
わたしの指先が、反射で伸びかけた。
けれど、レオニスが一歩前に出て、わたしと村人の間に自分の手を滑り込ませる。
「いただく前に聞く。これは何だ」
女は少し首を傾げた。
「蜂蜜酒です。女王様の蜜で作った、とびきりの」
女王。
その言葉が、村の甘さに溶けて、さらに濃くなった気がした。
「飲むと、ね」
女は自分の胸に手を当てて、うっとりと笑う。
「世界が軽くなるんです。こころが、ふわって」
そこへ別の村人が寄ってきた。男だ。彼は瓶を受け取り、当たり前みたいに口をつけた。
ごくり、と喉が動く。
次の瞬間――男の目が潤んだ。肩の力が抜けて、背中が少し丸まる。思考が遅くなったみたいに、瞬きをゆっくりする。
「ああ……今日もいい日だ」
ぽつり、と言った。
わたしは背筋が冷える。言葉が感想じゃない。確信だ。確認だ。自分に言い聞かせるでもない。ただ、そう決められているみたいに。
男は続けた。
「明日のこと? 考えなくていいよ」
本当に、心配していない顔だった。
「……」
わたしは息を吸う。甘い空気が肺に入って、妙に楽になる。楽になったぶん、怖さが増す。
レオニスとフィオラは、瓶に口を付けない。フィオラは村人の手首を借りて、脈を確かめるみたいに指先を置いた。
「……身体は正常。発熱もない。瞳孔反応も、極端な異常は……」
彼女の声は静かだ。けれど、その静かさの裏に、張り詰めたものがある。
クラリスが小声で言った。
「毒じゃないのか」
フィオラは首を横に振る。
「少なくとも、腐蝕ソムリエの腐蝕とは別系統です。……でも、精神に触れてる。強く」
レオニスが村人に尋ねる。
「この酒は、どこでもらえる」
女は嬉しそうに指を差した。
「森のほうです。道があります。みんな、ちゃんとお礼をして……蜜をいただくんです」
お礼。
わたしは、その言い方が嫌だった。
わたしたちは村の奥へ進む。
村人は案内を申し出たが、レオニスが断った。断られても、村人は笑って頷くだけだ。怒りもしない。怪訝にもならない。
森へ続く小道の手前に、列ができていた。
村人たちが、整然と並んでいる。
顔はみんな笑顔だ。待たされている不満がない。
むしろ、誇らしげに、穏やかに、順番を待っている。
列の先には木で作られた小さな台があった。台の向こうは森の影で、何があるのか見えない。
だが、そこから――蜂の羽音がする。
ぶん、ぶん、と低く、柔らかい音。
耳障りじゃない。むしろ子守歌みたいに、意識を溶かしていく音だ。
村人たちは、台の上に何かを置いていく。
金貨。宝石。乾燥肉。袋いっぱいの穀物。道具。鍬。斧。新しい靴。――そして、古びた剣。
家宝だろう。鞘の装飾は剥げているのに、持ち主が磨き込んでいた跡がある。
それを置いた老人が、満足そうに笑った。
「これで、また蜜をもらえる」
「女王様は、ちゃんと見てくれてる」
列の後ろからも同じ声が聞こえる。
誰一人、「取られている」と思っていない。
むしろ、与えることが当然で与えられることが祝福で――その循環が、この村の“幸福”を作っている。
クラリスが歯を噛みしめた。
「……奪われてるのに、自分から差し出してる」
ミスティアが声を落とす。
「依存……。でも、表面が優しすぎて、気づけないタイプです」
フィオラは台に置かれた品々を見て、目を伏せた。
「……これ、生活が崩れます。冬を越す備えまで出してます」
レオニスは、列と森を見比べ短く言う。
「“支配”の形だ」
わたしは森の影を見つめる。そこには姿がない。けれど、確かに“見られている”。
視線じゃない。圧力でもない。もっと甘く、柔らかいもの。
――歓迎。
「おいで」
そう言われているみたいな感覚だ。
蜂の羽音が、少しだけ大きくなった。
ぶん、ぶん、ぶん。
耳の奥がくすぐられる。心の奥が、ほどけていく。わたしの手の中の瓢箪《酔楽の酒葬》が、いつもより軽い気がした。酒の神の加護があるはずなのに、ここでは別の“甘さ”が上に被さってくる。
わたしは拳を握り直す。
「……お酒ってさ」
口に出した瞬間、自分の声が乾いているのが分かった。
「現実をちょっとだけ美味しくするためのものでしょ」
美味しくする。でも、隠さない。消さない。逃げ道にしない。
なのに、この村の甘さは――現実そのものを、ふわふわに包んで、輪郭を溶かしてしまう。
レオニスが、森を見つめたまま呟いた。
「……信仰だな」
その言葉が、妙に重かった。
信仰は疑わない。
疑わないから、強い。
強いから、壊れる。
わたしは森の奥へ続く道に足を踏み出しかけて、止まった。
列に並ぶ村人の中に、幼い子がいた。母親の手を握っている。子どもも笑っていた。笑っていることが、自然すぎた。
母親が子どもに言う。
「女王様に、ちゃんとお願いしようね」
子どもは頷いて、台の上に小さな銀貨を置いた。大人の貢物に比べたら、あまりに小さい。
けれど、その銀貨は、子どもにとってきっと大事なものだ。
銀貨が置かれた瞬間、森の影から、ほんの一滴。
黄金色の雫が落ちた。
蜜。
雫は台の端にとろりと広がり、甘い匂いが増した。列の村人が、一斉に小さく息を吸う。それだけで満たされるみたいに。
わたしは背中がぞくりとした。
姿が見えないのに、応じている。
――いる。
森の奥に支配者が。
「……わたし」
言葉が漏れた。
ここで、金棒を振り回すことはできない。村人は敵じゃない。敵だとしても、ただの悪じゃない。
でも――この甘さのまま、村を放っておいたら。
いつか、蜜が切れたとき。
この“満たされきった幸福”が、反動でどれだけの地獄を生むか。
フィオラが、わたしの横で静かに言った。
「この匂い、長く吸うほど、判断が遅れる。……私たちは、まだ平気。でも、普通の人なら、もう戻れなくなる」
レオニスが頷く。
「今日は引く。情報が足りない。次は準備して入る」
クラリスが歯を鳴らした。
「逃げるの」
「撤退だ」
レオニスは言い切った。
「敵の形が見えない場所で戦うな。救うために来た。死ぬためじゃない」
ミスティアが小さく頷いた。
「泡で遮断壁を作れます。村の外へ出るまで、匂いを薄めましょう」
わたしは最後にもう一度、森の影を見た。
蜂の羽音が、笑っているみたいに聞こえた。
ぶん、ぶん。
そして、どこからか、声にならない声が届く。
――また飲みたくなったら。
――いつでも、来なさい。
わたしは息を吐く。甘い空気を吐き出して、肺の底に残る熱を冷ますように。
「……甘いのは嫌いじゃない」
まだ、この時点ではそう思える。
でも、甘さが“選ぶ力”を奪うなら。
それは、甘いお酒じゃない。
わたしたちは村を出た。背中に、甘い匂いと羽音を感じながら。
そして分かった。
この村の敵は、剣で斬れない。金棒で殴れない。
――幸福の顔をしている。
次に来るとき、わたしはその幸福を壊す覚悟を持っていなきゃいけない。




