一人、足りない夜
焚き火の火は、小さかった。
燃やす薪は十分にあるのに、炎は必要以上に立てられていない。誰かが意図して抑えたわけでもない。ただ、自然とそうなった。
夜営の準備は、いつも通りだったはずだ。
水を汲み、簡単な食事を用意して、荷物をまとめる。
――そこで、わたしは手を止めた。
座る場所を、ひとつ多く空けてしまったことに気づいたからだ。
焚き火を挟んで、わたしたちの距離。
いつもなら、そこに誰かがいた。
今夜はいない。
「……そうか」
声に出したわけじゃない。ただ、胸の奥で小さく納得した。
ミレアは、村に残った。
腐蝕が止まったあとも、完全には戻らない人たちがいた。
治療が終わったわけじゃない。生き延びただけだ。
その「だけ」を、見捨てられなかったのが彼女だった。
誰も反対しなかった。
誰も引き止めなかった。
それが正しい判断だったことは、全員わかっている。
それでも――。
焚き火の向こうで、クラリスが剣を磨いている。
刃に布を滑らせる動きは、いつもより丁寧だった。
ミスティアは、指先に小さな泡を浮かべて、消してを繰り返している。
観測だ。腐蝕の残滓が、どこまで付いてきていないか。
フィオラは、薬箱の中身を無言で点検している。
瓶の数を数え、栓の緩みを確かめ、メモを書き足す。
レオニスは地図を広げたまま、視線を落としている。
次に向かう街道と、その先。危険度と距離。
誰も、喋らない。
沈黙が気まずいわけじゃない。
むしろ、落ち着いている。
全員が、理性的で、冷静で、正しい。
――だからこそ。
わたしは、違和感を覚えた。
ミレアがいたら、きっとここで何か言っていただろう。
誰かの顔色を見て、誰かの呼吸の乱れに気づいて、「無理してるでしょう」って、怒る。
怒る、というより、引き戻す。
正しさの外に引っ張り出す。
今夜は、それがない。
正しさだけが残っている。
わたしは瓢箪に手を伸ばしかけて、止めた。
出せるお酒はある。
疲労を和らげるものも、気分を軽くするものも。
でも、それをする理由が見つからなかった。
お酒は、魔法じゃない。
腐蝕ソムリエを止めたあとも、何度もそう思った。
生きている人はいる。
でも、戻らないものもある。
祝う理由が、どこにもない。
「……ミレア」
クラリスが、ぽつりと口にした。
剣を磨く手は止まっている。
「残るって言ったとき……止めた方が、よかったのかしら」
問いかけというより、自分に言い聞かせるような声だった。
レオニスはすぐには答えなかった。
地図から視線を上げ、焚き火を見る。
「彼女は、役目を選びました」
淡々とした声だった。
「誰かが残らなければならなかった。彼女が適任だった。それだけです」
それだけ。
正しい言葉だ。
わたしは反射的に口を開きかけて、閉じた。
違う、と思ったわけじゃない。
でも、同意できるわけでもない。
正しさはわかる。
納得は別だ。
ミスティアが小さく息を吐いた。
「……ミレアさん、たまに怒る人でしたね」
誰も否定しない。
怒る。
感情を露わにする。
それは、場を乱すこともある。
でも、必要なときもある。
怒られない夜は、静かだ。
静かすぎて、何かが抜け落ちている。
わたしは焚き火の火を見つめた。
炎は揺れているのに、温度は低い。
「怒ってくれる人がいないと」
口に出てしまった。
「正しいかどうかしか、残らないんだな」
誰も返事をしなかった。
否定も、肯定もない。
それでいいのかもしれない。
それでも――。
風が吹いた。
焚き火の煙が流れ、鼻先をかすめる。
甘い匂いが、混じった。
蜂蜜のような、花のような。
胸の奥が、少し緩む匂い。
危険だとは、思わなかった。
むしろ、安心する。
――楽になれる。
その感覚に、わたしは眉をひそめた。
「……嫌な匂いだ」
小さく呟く。
クラリスが首を傾げた。
「そう?」
「うん。甘すぎる気がする」
楽になる匂い。
考えなくていい匂い。
腐蝕ソムリエが目指したものと、どこかで重なる。
わたしは瓢箪を持ち上げないまま、手を下ろした。
お酒を使わない夜。
ミレアがいない夜。
正しさだけが、焚き火の周りに座っている。
それでも、進まなきゃいけない。
甘い声に、引き寄せられる前に。
わたしは、夜の向こうを見た。
次の敵は――
きっと、もっと優しい顔をしている。




