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異世界に酒税法は存在しねぇんだよぉぉぉ!!  作者: ヒオウギ


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196/210

腐りきる前に

 夜明け前の空はまだ黒かった。


 東の端がわずかに灰色へ溶けはじめているのに、街の広場は沈んだままだ。


 火を焚いても、あったかく感じない。


 人が歩いても、生活の音がしない。


 生きているのは分かる。呼吸がある。脈がある。発熱も落ち着いた。腐蝕の進行は一時的に沈静化している。


 それなのに――街は戻らない。


 味覚が戻らない者がいる。


 スープを口にしても、ただ「温度」だけを飲み込む。


 感情の起伏が薄いままの者がいる。


 子どもが泣いても、親は手を伸ばすだけで、顔が動かない。


 笑うことを忘れた者がいる。


 口角の上げ方を思い出せないみたいに、頬の筋肉が固まっている。


 そして誰も言わない。


「助かった」と。


 言う必要がないんじゃない。


 言う感情がまだ戻ってこない。


 ミレアはそんな街を歩いていた。


 ひとりひとりの横にしゃがむ。名前を呼ぶ。肩に触れる。指先で脈をとる。目を見て、息を合わせる。


「……イヴァンくん。今はここにいますか」


 少年はうっすらと視線を動かしたが、返事をしない。


 ミレアはそこで終わらない。


「いますね。大丈夫。あなたはいます」


 返事が薄くてもやめない。


 “生き延びた”という事実は、軽くない。


 軽くないからこそ、放っておけない。


 その背中を見ながら、わたしは瓢箪に触れそうになる指を止めた。


 今までなら、お酒を配っていた。


 乾杯で鼓動を戻そうとしていた。


 でも今は違う。


 ここでお酒を使ったら――誰かの「戻らなさ」を香りで覆い隠すことになる。


 それは癒しじゃない。


 麻酔だ。


 そして、麻酔は腐蝕ソムリエの領域だ。


 レオニスが広場の端に立ち、患者たちの方を一度見てから、静かに言った。


「……時間がありません」


 フィオラが頷く。彼女の手には昨夜の残量表がある。小瓶は減り、粉末は底を見せ、魔具の刻印は擦り減っている。


「発生源は、まだ生きてます。今は沈静化してるだけ。……再発は近い」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしの胸の奥が冷たくなった。


 あの地下醸造施設。


 発酵音。


 壁の文字。


『まだ“熟れていない”』


 ――熟れる前に止めなきゃ、終わらない。


 レオニスが判断を下す。


「昨日の調査で腐蝕ソムリエの所在が確定しました。地下蔵のさらに奥。“完成する直前”の区画です」


 空気が硬くなる。


 クラリスが剣の柄を握り直し、ミスティアが杖を抱え直す。


 ミレアは患者の手を離さないまま、こちらを見る。


 その目には疲労がある。怒りもある。だけど、逃げはない。


 レオニスは続けた。


「今止めなければ、次は街が死ぬ」


 それは脅しじゃない。


 医療判断だ。


「最終侵入を行います。医療チームの同行は継続。ただし目的が変わります」


 わたしは一歩前に出る。


「治療じゃない。断つんだね」


 レオニスは頷いた。


「腐蝕ソムリエの“工程”を破壊します。酒そのものを終わらせる」


 わたしは瓢箪を見下ろしながら言った。


「殺す必要はない」


 そして、胸の奥で言い切る。


「でも、逃がす気もない」


 討伐という言葉は誰も使わなかった。


 倒すためじゃない。


 止めるためだ。


 そこにいるのが敵だとしても。



 地下への道は昨夜より重く感じた。


 人が戻らない朝を見たからだ。


 生きているのに、笑えない世界を見たからだ。


 それを“仕上げる”存在がそこにいる。


 扉を押し開けると、歪なにおいが襲った。


 甘いのに、腐っている。


 温かいのに、冷たい。


 空気が肺に入った瞬間、思考が一拍遅れる。


 どうでもいい。


 なんでもいい。


 その囁きが壁の菌糸の奥から滲み出してくる。


 ミスティアが杖を掲げる。


 《泡沫魔法・守護結界:クールドーム》


 泡の膜が広がり、腐蝕粒子を遮断する境界線が生まれる。


 クラリスが前に出て、剣を抜く。


「通り道は私が作る」


 フィオラは薬包を握り、短く言う。


「副作用抑制、準備できてる」


 ミレアは一歩遅れて歩く。視線は仲間全員をなぞり、精神汚染の兆候を探す。


 レオニスが指揮を取る。


「前回と同じように焦らない。無理をしない。進む/止まるは私が決めます」


 そして、わたしの役割は最前線に立つことじゃない。


 動けなくなる前に立たせること。


 酒で殴るんじゃない。


 酒で戻す。



 最深部の扉は確かな“意図”を感じさせた。


 誰かが待っている。


 扉を開けると巨大な醸造槽が見えた。


 泡が溢れ、発酵音が鳴り続ける。


 ぶく、ぶく、ぶく。


 生き物みたいに、世界を腐らせる音。


 そして――そこに、人がいた。


 白衣ではない。


 汚れたソムリエ服。襟元は擦れて、袖口には乾いた泡の跡。手袋はしていない。指先が、長い時間濡れたものを触ってきた色をしている。


 穏やかな表情だった。


 お客様を迎えるマスターみたいに。


「間に合いましたね」


 声は柔らかい。


 柔らかいから、余計に怖く感じる。


「でも、“完成”は止められませんよ」


 わたしは一歩前へ出た。


 クラリスが半歩ずれて前に立とうとするのを手で制す。


 今は剣の時間じゃない。


 まず、言葉の時間だ。


「腐蝕ソムリエ」


 男は微笑むだけで頷く。


「私は酒を美しく仕上げているだけです。……人は疲れていますからね。考えることも、選ぶことも」


 その言葉が患者の静かな目と繋がって見えた。


 笑えない朝。


 助かったと言えない喉。


 それを“疲れ”の一言で片づける。


 レオニスが低く言った。


「酒、癒しのふりをした麻酔ではない」


 腐蝕ソムリエは肩をすくめる。


「麻酔が必要な人もいます。痛みを抱えたまま生きるくらいなら、鈍ってしまったほうが楽だ。……あなた方も見てきたでしょう? 治らない者を」


 胸の奥が熱くなる。


 怒りだ。


 ミレアが小さく息を吸う音がした。


 腐蝕ソムリエは続ける。


「私は奪っていません。人が望んでいるものを渡しているだけです。美しく。静かに。匂い高く」


 わたしは言った。


「それは酒じゃない」


 吐き捨てるみたいに、でも言葉は真っ直ぐに。


「逃げ道だ」


 レオニスが重ねる。


「選択を奪う治療は治療じゃない」


 穏やかな笑みが、ほんの少しだけ崩れた。


 腐蝕ソムリエは醸造槽に手をかざす。


「では、見せてください。……あなた方の正しさがどれだけ保つか」


 戦闘は始まった。


 でも、剣が飛ぶ戦闘じゃない。


 空間が腐る。


 空気が鈍る。


 思考が遅くなる。


 判断が遅れる。


 感情が薄まる。


「どうでもいい」が肺に入る。


 クラリスが前に出て剣を振るう。だが刃は空気を切るだけで、敵には届かない。


 腐蝕ソムリエは動かない。


 ただ、空間全体に腐蝕を広げる。


 ミスティアが泡を拡げ、洗浄しようとする。


 《泡沫魔法・鼓泡:ミスティックバースト》


 泡の圧で腐蝕粒子を弾く。


 だが、次の瞬間、泡の内側に“無力感”が滲む。


 ミスティアの指が震えた。


「……これ、弾いても……」


 フィオラが薬を投与する。


「思考鈍化、抑えます。……でも、効きが薄い」


 薬が空気に負けている。


 ミレアが眉を寄せ声を絞り出す。


「……みんな、目を。目を逸らさないで。名前を呼んで」


 それでも、彼女の顔色が落ちていく。


 精神汚染の限界に近い。


 レオニスが歯を食いしばり、撤退の言葉を喉まで上げるのが分かった。


 撤退は正しい。


 命を守るためなら、撤退は正しい。


 でも――今撤退したら、完成してしまう。


 次は街が死ぬ。


 もっと多くの人が、もっと大きな場所が、静かに壊れる。


 指が瓢箪の栓にかかる。


 最大出力では使わない。


 ここで暴走させたら、麻酔と同じになる。


 わたしがするのは“一杯だけ”。


 自分のための酒。


 逃げないための酒。


 瓢箪から梅酒を出す。


 甘い香り。


 《甘酔芳香・メロウフォーム》。


 でも、これは今までの“周囲を包む”使い方じゃない。


 自分の意志を固定するための、一本の杭だ。


 わたしは一口だけ飲んだ。


 舌の上に甘みが広がる。


 鼻に香りが抜ける。


 その瞬間、世界の輪郭が戻る。


 腐蝕の匂いは、嫌悪として立ち上がる。


 嫌悪できるなら、まだ生きている。


 そして言った。


「これは逃げない酒だ!」


 フィオラが即座に動いた。


「安定薬、入れます!」


 彼女の薬が酒の活性を暴走させないよう抑え込む。副作用を止め、意志だけを残す。


 だが、腐蝕の影響か副作用が出てしまう。


 ミスティアが泡を重ねる。


 《泡沫魔法・滑層:スリップフォーム》


 腐蝕粒子の“足場”を奪う泡。空間を洗う泡。広がりを止める泡。


 ミレアが震える手で、わたしの肩に触れる。


「……伊吹。戻って。戻ってきて」


 その言葉が最後の鍵だった。


 精神が固定された。


 名前を呼ぶ。触れる。ここにいると確認する。


 酒と医療と泡と心が、噛み合う。


 レオニスが決断を撤退から攻めへ切り替えた。


「工程を断つ。今だ!」


 クラリスが醸造槽へ駆ける。


 剣で切るんじゃない。


 “支え”を壊す。


 泡が醸造槽の脚部を滑らせ、フィオラの薬が腐蝕反応を一瞬だけ鈍らせ、わたしの酒が仲間の意志を引き戻す。


 クラリスの剣が醸造槽の制御弁に叩き込まれる。


 金属が軋む。


 泡が暴れる。


 発酵音が途切れる。


 ぶく、ぶく、ぶく――


 その心臓音が急に不規則になった。


 腐蝕ソムリエの表情が初めて歪んだ。


「……ああ」


 彼は初めて前に踏み出そうとした。


 でも遅い。


 工程が崩れた。


 醸造槽が傾き、泡が噴き、壁の菌糸が悲鳴のように震える。


 そして、崩壊。


 轟音ではない。


 静かな破裂。


 発酵音が消え、空気が軽くなり、腐蝕の圧が抜ける。


 腐蝕ソムリエは膝をついた。


 逃げようとしない。


 ただ、座り込む。


 彼の服に泡が落ちて、ゆっくり染みていく。


 穏やかな笑みは戻らない。


 代わりに、どこか満足そうな目で言った。


「……良い連携です」


 その言葉にわたしの喉が詰まる。


 レオニスが一歩近づき、冷たい声で言った。


「終わりです。あなたの工程は止まった」


 腐蝕ソムリエは肩を落とす。


「止まった。ええ、止まりました。……でも」


 そして、最後の言葉を落とした。


「次は、もっと静かですよ」


 視線が空のどこかを見た。


「虚無は音を立てません」


 それだけ言って、彼は黙った。


 拘束する必要はあった。


 でも殺す必要はない。


 逃がす気もない。


 彼は動けない。工程を失い、空間の腐蝕を維持できない。


 ――撃破。そして拘束。


 でも、終わりじゃない。



 街に戻ると、腐蝕は止まっていた。


 新たな発症は起きない。


 腐蝕反応は沈静化し、空気の重さは抜けた。


 それでも――戻らない者は戻らない。


 味覚は戻らない。


 感情も完全には戻らない。


 笑うことは戻らない。


 レオニスが患者たちに言った。


「これが、限界です」


 彼は慰めない。


 希望を盛らない。


 事実を置く。


 患者たちは、静かに頷いた。


 怒りもない。泣きもない。


 ただ、受け入れるしかない現実を受け取った顔だった。


 わたしは広場の中央で言った。


「……それでも、生きてる」


 その言葉は誰の胸にも刺さらなかったかもしれない。


 でも、わたし自身に刺さった。


 生きている。


 それは始められるということだ。



 別れの準備をする時間が来た。


 医療チームは村に残る者と、同行する者に別れる。


 全員が次へ行くわけじゃない。


 残らなきゃ、この街は立ち直れない。


 ミレアは残ると言った。


「ここには手を握る人が足りないですから」


 フィオラは同行を選ぶ。


「次は薬がもっと要る。……私が行かないと間に合わない」


 レオニスは同行を選ぶ。


「次はもっと酷い」


 その一言で空気がまた冷える。


 クラリスが剣を鞘に収め、わたしの横で言った。


「伊吹。……進むんでしょ」


「うん」


 わたしは瓢箪を握りしめたまま、栓を開けなかった。


 お酒は魔法じゃない。


 失われたものを全部戻せない。


 でも――進むための意志を立たせることはできる。


 わたしは心の中で言う。


 腐る前に止められた。


 でも、失われたものは戻らない。


 それでも――進むしかない。


 街を離れる直前、ミレアが患者一人の手を握っていた。


「あなたは切り捨てられたんじゃない」


 返事は薄い。


 ミレアは笑わない。


 やめない。


 その背中がわたしの中で“医療”になった。




 そして――。


 どこか静かな場所。


 酒の匂いもない。


 発酵の音もない。


 泡もない。


 ただ、無音がある。


 誰かが呟いた。


「感情がなくなれば、腐りもしない」


 声は淡い。


 淡いから怖い。


 虚無は音を立てない。


 それでも確かに近づいてくる。

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