選ばれる命
この街に着いた瞬間、数を数えた。
家の戸の数。畑の広さ。井戸の位置。人が集まれる広場の広さ。
――足りない。
何がじゃない。全部が最初から足りない。
前の街は腐蝕がゆっくり広がった。止める時間があった。泡で洗って、医療で支えて、ギリギリ間に合わせた。
けれど、ここは違う。
同時多発。
同じ朝に別々の家から「おかしい」が噴き出している。
畑の真ん中で膝をついた男。井戸端で桶を落とした女。子どもを抱えたまま動けなくなった母親。広場へ運び込まれる老人。誰も叫ばない。叫べない。叫ぶ感情が鈍っている。
腐蝕ソムリエは、戦わない。
殺しもしない。
ただ「動けなくなる理由」を街の中に撒いていく。
レオニスが即座に指揮を取った。
「集会所を臨時の処置場に。広場はトリアージ用に使います。動ける者は家に戻さず集めてください」
彼の声は冷たい。だが、冷たいから正確だ。正確だから人が動く。
フィオラは薬箱を開き、瞬間で残量を確認した。瓶の数。粉末の袋。安定剤の小瓶。治療用魔具の刻印の残量。
そして、淡々と――まるで天気を告げるみたいに言った。
「全員は無理」
言葉が場を切り裂いた。
わたしは反射的に前へ出た。口が開く。何か言おうとする。けど、喉で止まる。
何を言う?
「なんとかなる?」
根拠はどこにある。
お酒を出す? 治るのか?
この腐蝕は“治す”ではない。“止める”だ。お酒は活性させることはできても、失われた味覚や感情の穴を埋められない。
ミスティアの泡は洗浄だ。
けれど、連続使用には限界がある。泡は魔力でできている。魔力は無限じゃない。
フィオラが冷静に結論を口にした。
「今ここにある資源で救えるのは……半分以下」
半分以下。
この一言で世界が変わった。
壁だ。
初めて殴れない壁が“数”で立ち上がった。
拳を握った。爪が掌に食い込む。
倒せばいい敵はいない。
殴れば解決する問題じゃない。
それでも、人は目の前で倒れていく。
集会所の中はすぐに満員になった。寝台が足りないから、床に毛布を敷く。水を配る。吐瀉物を処理する。手を握る。呼吸を測る。
ミレアが患者の顔を覗き込み、震える声で名前を呼ぶ。
「……聞こえますか。大丈夫。あなたはここにいます」
彼女は“心の位置”を確認する。崩れかけた意志を落とさないために。
レオニスが広場で村人たちを前にして告げた。
「ここからは選別します」
選別。
その言葉は剣より鋭く想い。
だが、彼は躊躇しない。躊躇すれば全員が落ちる。
「優先する基準を言います。回復見込みが高い者。若年層。二次感染リスクの低い者」
理由は全部正しい。
合理的で、冷静で、間違っていない。
民衆たちは騒がなかった。怒鳴りもしない。泣き叫びもしない。
ただ、互いに目を逸らした。
目を合わせたら、自分が“選ばれない側”に落ちる可能性が見えるから。
ある老人がひょいと手を上げた。皺だらけの手。土に働かされた指。
「若い者を先に」
声は弱い。けれど、よく通る。
「わしはもう十分生きた」
その言葉に周囲が静かに頷く。
自己犠牲が“当然”として受け入れられる空気。
わたしはその空気に寒気がした。
これは美談じゃない。
納得じゃない。
ただ、諦めが上手くなっただけだ。
ミレアがわたしの横で小さく呟いた。
「……違う」
視線が揺れている。彼女は感情を読む人だ。だからこそ、今の村の“静かさ”が異常だと分かる。
「これは、納得じゃない」
その通りだ。
納得は心が動いた結果だ。
これは心が動けない結果だ。
選別は進んだ。
フィオラが薬を配り、レオニスが処置の段取りを指示し、ミスティアが泡で空間を区切って感染と腐蝕粒子の拡散を防ぐ。わたしとクラリスは入口で警戒し、暴れる患者を押さえ、運搬を手伝った。
医療は戦いだ。わたしは今さらそれを理解する。
だが、戦いの相手が“敵”ではないとき――手が震える。
そして、決定的な言葉が落ちたのは広場の端だった。
治療対象から外された子どもがいた。齢十にも満たない。顔色が悪いのに、泣き叫ばない。泣く余力がないのか、泣く感情が薄いのか。
その子が無邪気に言った。
「ぼく、だいじょうぶ」
大丈夫。
大丈夫の意味をこの子は知っているのか。
「さっきのおばちゃんより、がまんできるよ」
――慣らされた命。
その瞬間、ミレアが動いた。
今までずっと抑えていたものが、堤防を越えたみたいに。
「違う……!」
彼女の声が広場に響いた。
医療チームの誰もが一瞬、手を止めた。空気が凍る。
ミレアは子どもの前に膝をついて、顔を上げたままレオニスを見た。涙は出ていない。
「それは、選んだんじゃない!」
声が荒れる。初めて聞く、彼女の荒い声。
「“諦めさせられてる”だけ!」
レオニスの眉がわずかに動いた。怒りではない。痛みだ。彼も理解している。理解した上で、やるしかない。
ミレアは噛みしめるように言った。
「あなたは正しい」
正しい。だから苦しい。
「でも……それで心が壊れる人を誰が診るんですか!?」
その問いは刃だ。
医療は命を診る。
でも、命の中には心がある。
心が壊れたあと誰が拾う? 誰が治す?
レオニスが言葉に詰まった。
彼は“心が壊れた後”を見てきた人間だ。
だからこそ、今この場で“壊れる前”に止めたいのに――止めるためには、選ばなければならない。
正しさと人間らしさの真正面からの衝突。
わたしは何も言えなかった。
拳を握りしめたまま、唇を噛んだ。
選ばなきゃいけない。
でも、選びたくない。
選んだ瞬間、わたしの中の何かが腐っていく気がした。
レオニスは深く息を吸った。短い沈黙のあと、低く言った。
「……ミレア。あなたの言う通りです」
それは謝罪ではない。認める言葉だ。
だから、余計に残酷だ。
「だが、今ここで全員を同じに扱えば、全員が落ちます」
彼は視線を民衆に向けた。目を逸らす者もいる。握り合う手もある。
「私は判断します」
最終判断。
彼の背中が少しだけ大きく見えた。
英雄の背中じゃない。
生き残らせる専門家の背中だ。
ミレアは黙った。止めない。止められない。けれど、折れない。
彼女は選別から外れた人々のほうへ歩いた。
治療できない人たちのほうへ。
手を握る。
名前を呼ぶ。
頷きが返らなくても、声をかける。
「あなたは切り捨てられたんじゃない」
彼女は繰り返す。祈りのように。
「ここにいます。あなたはここにいます」
治療できなくても、見捨てない。
それが彼女の役割だと、わたしは知った。
わたしはお酒を使わなかった。
瓢箪の紐に触れたまま、引かなかった。
代わりに、温かい飲み物を配った。お湯に塩と少しの糖。身体に入るもの。命を繋ぐもの。
酔わせないが突き放さない。
それだけを繰り返す。
やがて夜が来た。
救えた人がいる。
救えなかった人もいる。
死ではない。まだ死んでいない。
けれど――心が壊れかけている人が出た。
選別から外れた青年が毛布の中でぽつりと言った。
「……もう、いいや」
「助けて」よりも怖い言葉。
「もういい」が出た瞬間、人は落ちる。
フィオラがわたしとレオニスのところへ来た。声は低い。顔は冷静。
だが、目の奥が焦っている。
「……もう一段階、進んでる」
彼女は広場の外、闇のほうを見た。見えない敵のほうを。
「腐蝕ソムリエの領域に近い。『諦め』が早すぎる。慣れさせられてる」
レオニスが静かに言った。
「次は……攻めなければ間に合わない」
攻める。
それは、わたしの領分だ。
でも、今の“攻め”は敵を倒すためじゃない。
これ以上、選ばれる命を増やさないためだ。
わたしは瓢箪を見る。
お酒で救えない夜もある。
でも――背中を向ける理由にはならない。
闇の向こうに、発生源がある。
源を断たなければ、この選別は続く。
続けば心が先に腐る。
わたしは息を吸い、吐いた。
拳の力を抜く。
代わりに立つ。
「行こう」
声は小さかった。
けれど、医療チームの全員がこちらを見た。
誰も「討伐」とは言わない。
言えない。
これは“止める”ための侵入だ。
生き残るための、次の一歩。




