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異世界に酒税法は存在しねぇんだよぉぉぉ!!  作者: ヒオウギ


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生き残るということ

 朝の空気は澄んでいた。


 冬の朝みたいに冷たくて、肺の奥まで入ってくるのに、どこか味が薄い。

 霧は引いた。匂いも弱い。ミスティアの泡が昨夜、村の中心をもう一度“洗った”からだ。


 腐蝕の進行は止まっている。


 死者も出ていない。


 数日前まで、あれほど危険だと思っていたのに、数字だけを見るなら勝っている。


 なのに――村は静かだった。


 勝った後の静けさじゃない。


 祝祭都市を倒したあとに残る、あの拍子抜けの静けさとも違う。


 湯気の立たない朝。


 生きているのに温度が戻らない朝。


 教会跡地の外でわたしは小さな鍋を火にかけた。薪の匂い。沸き始める水の音。湯気が立つ。

 けれど、その湯気さえどこか薄く感じる。


 クラリスが後ろに立つ。


「……飲ませないの?」


 彼女は瓢箪を見て言った。


 いつもなら、わたしはここでお酒を振る舞っていた。

 疲れた人間の肩を叩いて、笑わせて、泣かせて、立たせて。


 だが今は手が伸びない。


 瓢箪の口がやけに重く見える。


「今は違う」


 そう答えた。答えたけど、自分の声が自分で信じられない。


 鍋の中は水と乾燥した野菜とほんの少しの塩。薄いスープ。栄養のための味。慰めのためじゃない味。


 慰めは今は危ない気がした。


 慰めが麻酔になった瞬間から、腐蝕ソムリエの領域に入る。


 教会跡地の中では、村人たちが静かに座っていた。


 体は動く。歩ける。仕事もできる者が増えた。

 だが、表情が薄い。話し声が弱い。笑い声が戻らない。


 味覚が戻らない人がいる。


 食べ物を口に運び「砂を噛んでるみたいだ」と言う人がいる。


 感情の起伏が薄いままの人がいる。


 家族が笑って見せても「良いことだとわかるんです」とだけ言う。


 そして決定的に重いのは――


 家族を見ても目が動かない人がいることだ。


 抱きしめられても、肩を叩かれても、泣かれても。


 その人は小さく息を吐いて、こう言う。


「大切だと思えない」


 その言葉が誰かを刺す。


 刺された側が声を上げないのが、さらに刺さる。


 怒鳴り声がない。喧嘩がない。泣き叫ぶ声もない。


 諦めが声を奪っている。


 教会の隅で、村の若い男が湯気の立つ椀を両手で包んでいた。

 昨日、フィオラの投与ミスが起きかけた患者だ。彼はスープを口に含み、眉をひそめた。


「……熱いのは、わかるんです」


 熱い。冷たい。痛い。触覚はある。身体の感覚は戻っている。


 なのに。


「味が薄い」


 わたしは黙って頷いた。


 男は続けた。言葉を探すのに時間がかかっている。感情が追いつかない。


「生きてるのはわかるんです」


 そこで一度、呼吸を整える。


「でも……前と同じじゃない」


 その言葉が床に落ちた。


 誰も拾わない。


 拾えない。


 拾った瞬間、自分の胸に刺さるからだ。


 勝ったのに祝えない。


 いや、勝ったと思っているにはわたしだけだ。


 わたしは鍋の柄を握りしめた。指が白くなる。


 それでも……生きてる。


 その事実だけが今は頼りだ。


 レオニスが村の代表者を教会の中央に呼んだ。


 医療チームの“公式判断”を伝えるためだ。


 レオニスは椅子に座らない。立ったまま、手元の記録を一枚確認してから顔を上げた。声はいつも通り、低く、乾いている。慰めが入る余地がない声だ。


「結論から言います」


 村人の視線が集まる。怒りはない。期待も大きくない。ただ、待っている。


「腐蝕の進行は止められました」


 小さな息が漏れた。喜びではない。確認の息。


「ただし、完全回復は不可能です」


 誰も騒がない。


 誰も怒鳴らない。


 失望も大声にならない。


 静かにうなずく者がいる。目を伏せる者がいる。唇を噛む者がいる。

 受け入れる準備は、もうできていた。


 レオニスは続ける。


「今後は“共に生きる”段階です。症状は固定されます。改善する可能性もありますが保証はできない」


 保証できない。


 それが医療の言葉だ。嘘をつかない。希望を売らない。現実を置く。


 村の代表がゆっくりと頷いた。


「……わかりました」


 それだけだった。


 諦めが“受け入れ”に変わる瞬間は、こんなにも静かなんだと知った。


 わたしの中で何かが疼いた。


 お酒で立たせられなかった。


 もっと早ければ。もっと強ければ。もっと――“倒す”ことに集中しすぎたんじゃないか。


 腐蝕ソムリエを追い詰めることだけを考え、村の“戻らなさ”を後回しにした。


 村を救ったのか。


 それとも――ただ死なせなかっただけなのか。


 外へ出るとレオニスが同じように外気を吸っていた。彼は村の空を見ている。視線は遠いが現実から逃げている目ではない。計測している目だ。


 わたしは言葉を吐き出した。


「わたしは……何を救った?」


 声が掠れた。自分の声が情けなく聞こえる。


 レオニスはこちらを見ないまま答えた。


「あなたが来なければ、この村は死んでいた」


 断言。


「それは揺るがない事実です」


 慰めじゃない。励ましでもない。数字と同じ重さの言葉だ。


 だからこそ、胸に刺さる。


 反論しようとしたが、言葉が出てこない。


 レオニスは淡々と続けた。


「だが――それと“元に戻る”かどうかは別です」


 別。


 切り分ける。医療の手つきで感情を切り分ける。


 わたしは拳を握った。


 でも、反論できない。


 元に戻らない現実は村の顔を見れば分かる。椀を包む手の冷たさで分かる。笑いの薄さで分かる。


 ただ問う。


「じゃあ……これで終わりなの?」


「終わりではありません」


 レオニスはようやくこちらを見た。


「“生きる”が始まります」


 その言葉が、わたしの中で空回りした。


 生きる。生きるためには、何が必要だ。


 お酒か。医療か。戦いか。


 答えが出ないまま、教会跡地から声が聞こえた。


 村人の一人――年配の女が、代表者に向けて言った。


「治らなくてもいい」


 その声は小さい。だが、芯がある。


「生きてるなら、やり直せる」


 その言葉に反応したのは、わたしじゃなかった。


 レオニスだった。


 彼の肩がほんのわずかに動いた。呼吸が変わる。目の焦点が一瞬だけ内側に向く。


 過去がにじむ。


 具体的な回想はない。ただ、言葉の重みが変わる。


「……」


 レオニスは少しの沈黙のあと、低い声で言った。


「私は……治せなかった命を何度も見ました」


 それだけで分かる。彼が“治す医者”から、“生き残らせる専門家”へ変わった理由が。


「だから、“生き残らせる”ことを選んだ」


 逃げじゃない。


 諦めでもない。


 覚悟だ。


 その瞬間、初めて理解した。


 倒す英雄。


 生き残らせる専門家。


 どちらも、必要だ。


 どちらも、欠けたら終わる。


 息を吸った。胸が痛い。でも痛いから、まだ動ける。


「倒しても、全部は救えない」


 言葉が自然に出た。今までなら、悔しさで潰れていた言葉。


「でも……倒さなきゃ、何も始まらない」


 レオニスが短く頷いた。


「ええ」


 そして、はっきり言う。


「だから、あなたが必要です」


 その言葉は、わたしの“攻め”を肯定する。


 同時に彼の“守り”が揺るがないと示す。


 ここで初めて、同じ方向を向いた気がした。


 倒すだけじゃ足りない。


 でも、倒さなきゃ始まらない。


 どちらか一方の正しさで、もう押し切れない。



 夕方。


 村の代表者たちが集まった。レオニスの説明を受けたあと、彼らは決めた。


 村を離れない。


 完治を待たない。


 自分たちで生活を立て直す。


 代表が言った。声は震えていない。凪いでいる。でも、折れてはいない。


「生き残った意味をこれから作ります」


 その言葉が胸を叩いた。


 意味は与えられるものじゃない。


 作るものだ。


 作るために生き残る。


 わたしは鍋を持って、教会跡地の前に並んだ。お酒ではなく、薄いスープを配る。


 椀を差し出す手に、お酒の軽さはない。代わりに現実の重さがある。


 クラリスが小声で言った。


「……相変わらず、伊吹らしくないわね」


「そうかもね」


 わたしは椀を渡しながら答えた。


 ミスティアが泡を少しだけ浮かべて椀の縁を拭う。衛生のため。彼女なりの“守り”だ。


「酔わせない選択ですね」


 ミスティアの声は静かだった。否定でも肯定でもない。確認。


 わたしは頷く。


「お酒は魔法じゃない」


 瓢箪を見ないまま言った。


「でも……生きる力を渡すことはできる」


 それがスープかもしれない。水かもしれない。手渡す動作そのものかもしれない。


 村の夜は静かに更けた。


 誰も「助かった」と言わない。


 言えない。


 助かったという言葉は元に戻ったときに出る言葉だから。


 それでも、人は椀を受け取る。


 受け取るという行為だけが“生きる”の始まりみたいに見えた。


 そして――次へ繋がる扉は同じ夜に開いた。


 フィオラが帳簿を片手にわたしとレオニスのところへ来た。顔色は落ち着いている。


「報告がある」


 フィオラは淡々と言う。


「治療資源が足りない」


 レオニスの眉がわずかに動いた。


「何がだ?」


「全部」


 フィオラは言い切った。


「解毒薬、精神安定剤、治療用の魔具。泡洗浄の補助に使う薬剤も。……次の街では、全員は救えない」


 その言葉が冷たい刃みたいに落ちた。


 わたしは息を呑む。喉の奥が乾く。


 次の街。


 次の現場。


 同じように腐蝕が出て、同じように止めて、同じように――戻らない人が出る。


 しかも今度は。


 救える人数が最初から足りない。


 ミレアが静かに顔を上げた。


 戻ったはずの感情が今度は“怒り”として滲む。声は荒げない。荒げないからこそ重い。


「……選ぶんですか?」


 レオニスは答えない。答えられない。


 ミレアは続けた。


「誰を生かすかを?」


 その瞬間、わたしの拳が握りしめられていた。


 殴れば解決する問題じゃない。


 倒せば終わる敵はいない。


 それでも、ここから先は避けられない。


 選ぶという地獄がもう目の前にある。


 瓢箪の紐に触れた。


 抜かなかった。


 抜けなかった。


 お酒を振る舞う夜ではない。


 けれど、背中を向ける理由にもならない。


 静かな夜の奥で腐蝕ソムリエが笑っている気がした。


 慣れさせて、諦めさせて、正しさで人を削る。


 その次の段階へ。


 わたしたちは踏み込む。

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