侵食
戦っていないのに、疲れていた。
いや。疲れている、というより――減っている。
数日前、あの地下蔵の最奥で腐蝕ソムリエと対面してから、村の空気は変わらない。
腐敗の進行も止まっている。死者も出ていない。倒れる者も増えていない。
だから本来なら、状況は“持ち直している”はずだった。
でも実際は重い。
中身のない鍋をかき混ぜ続けているみたいに、手応えがないのに体力だけが削れていく。
朝の診療所――と言っても、教会跡地を借りているだけの臨時拠点だ。板張りの床、粗い木の匂い、壁に貼られた祈り札。そこに患者が並び、医療チームが淡々と回っている。
治療は効いている。
解毒、進行停止、精神安定。症状は“止まっている”。
だが、回復はしない。
味覚が戻らない人がいる。
笑顔が薄い人がいる。
家族を見ても「大事だと分かるのに、胸が動かない」と言う人がいる。
それでも生きている。
生きているのに祝えない。
瓢箪に手を伸ばしかけて――やめた。
お酒で立たせる局面じゃない。あの透明な瓶を思い出すだけで、喉が冷える。あいつは酔わせない。もっと静かに、心を眠らせる。
その静けさが医療側から広がっている。
気づいたのはミレアだった。
患者の手を握り、額に触れ、呼吸の乱れを見て、頷いて。いつもの流れを終えたあと、彼女はほんの数秒、何も言わなくなる。
沈黙は今までにもあった。人の痛みを受け止める仕事だ。息を整える時間は必要だ。
でも――今回は質が違う。
沈黙が重いのではなく、薄い。
言葉が出ないのではなく、出す必要がないみたいな沈黙。
昼過ぎ、ひと段落したとき。
ミレアが患者から離れ、手を拭いながらぽつりと呟いた。
「……感情が遠い」
冗談めかした言い方だった。
けれど、口元は笑っていない。目だけが何かを探している。
クラリスが眉を寄せる。
「疲れているだけじゃないの? ここのところ休みがなかったから」
「そうならいいんですけどね」
ミレアは肩をすくめた。軽く見せようとする動きが痛々しい。
フィオラが薬袋を閉じながら言う。
「疲労は正常。問題は疲労の“方向”だ」
レオニスは患者の記録を確認し、次の処置に移る。いつもなら判断が早い。迷いがない。必要なことだけを削ぎ落として命を守る。
そのレオニスの指が一瞬止まった。
指先が紙の上を滑り、次の欄へ行けない。
「……」
沈黙。
わたしはそれを見て、胸の奥がざわついた。
レオニスが迷うときは状況が極端に悪いときだ。情報が足りないときだ。判断材料が揃わないときだ。
だが、今は違う。
材料は揃っている。症状は止まっている。処置は定型化できる段階に入っている。
なのに止まる。
戦っていないのに、異変が起きている。
その日の夕方、決定的な“ミス”が出た。
患者は若い男性。腐蝕症状は軽度で、進行停止処置の経過観察が中心。フィオラが解毒薬の調整をし、レオニスが投与量を確認し、ミレアが精神安定の兆候を読み取る。いつもの分担だ。
フィオラが薬瓶を傾ける。
滴下。計量。希釈。
完璧な手つきだった――はずなのに。
「……あっ」
フィオラが声にならない声を出した。
次の瞬間、彼女は薬杯を取り上げ即座に中身を捨てる。床に吸わせないよう布を敷き、無駄のない動きで廃棄処理に回した。
レオニスが顔を上げる。
「何をした」
「投与量が違う」
フィオラの声が低い。怒りではない。驚きと、恐怖に近い硬さ。
「……ありえない」
彼女は自分の手を見た。まるで裏切られたみたいに。
「こんな初歩、間違えるわけが」
レオニスが薬瓶とメモを照合する。数字は明らかにズレていた。多すぎる。もし投与していたら、進行停止どころか逆反応が出た可能性がある。
しかし――フィオラは気づいた。投与前に修正した。
助かった。
わたしは息を吸う。鼻の奥が甘い。あの地下蔵の香りが、まだ残っている気がした。
レオニスが淡々と問う。
「原因はわかるか?」
「わからない」
フィオラは即答した。即答できるのが彼女の強さだ。言い訳をしない。
だが、顔色がわずかに落ちている。
「手が滑ったわけじゃない。計量器も正常。記録も正常。……私が間違えた」
ミレアが口を開く。
「“間違えた”って……フィオラが?」
彼女の声が揺れる。揺れるのに感情の温度が乗らない。心が驚いていないみたいだ。
フィオラが唇を噛んだ。
「そう。私が」
怒りでも自責でもない。事実だけの言い方。
それが余計に不安を増幅させた。
レオニスはそこで“いつものレオニス”なら即断する。
即座に休息を命じ、分担を組み替え、再発防止の手順を上書きする。
だが――
「念のため」
レオニスが言った。
「今日の処置を一つずつ、二重確認に切り替える」
正しい。合理的。安全。
でも、その「念のため」がやけに重い。
念のための確認は処置を遅らせる。
余裕がないわけじゃない。
だが、時間は常に有限だ。今は進行停止しているが、それが永遠に続く保証はない。
わたしは口を挟みたくなった。
早くしろ。遅れるな。間に合わなくなる。
腐蝕ソムリエの声が脳裏を掠める。
――あなたたちは、遅い。
レオニスはメモを握り、独白に近い声で言った。
「安全を選んだはずなのに……」
言葉の続きを飲み込んだ。
彼の目がほんの一瞬だけ遠くを見る。過去の症例。治せなかった命。守れなかった決断。
その“遅れ”が、今ここに滲んでいる。
ミレアの異常は、さらに露骨になった。
翌日。患者の一人が、家族の前でぽつりと言った。
「……泣きたい気がするんですけど、泣けない」
その言葉は本来なら、ミレアが真っ先に拾う。心の揺れを見逃さない。ケアに繋げる。
だがミレアは、その場で頷いただけだった。
「そうですか」
それだけ。
家族が不安そうに彼女を見る。ミレアは気づかない。いや、気づいているのに、反応が遅い。
診療が終わったあと、わたしは彼女のところへ行った。
「ミレア」
「はい」
「今の、もう少し声をかけた方がよかったんじゃない?」
ミレアは一瞬、目を瞬いた。
そして、困ったように笑った。
「……怖くないんです」
その言葉が、わたしの背中を冷やした。
「悲しくもない」
ミレアは自分の胸に手を当てる。心臓の位置を確認するみたいに。
「……それが怖くない」
その瞬間、わかった。
腐蝕は身体じゃない。
役割を壊しに来ている。
医師の判断を鈍らせ、薬師の精度を落とし、心のケア役の感情を薄める。
戦わずに、殺さずに“守る側”を腐らせる。
ミスティアが、その異常を“泡”で見つけた。
夕方、拠点の外。風が湿っている。
村の周囲には薄い霧が出始めていた。腐蝕ソムリエと、同じ匂いがする。
ミスティアは掌に泡を浮かべ、その泡を医療チームの周囲に巡らせていた。
いつもなら泡はよく反応する。体温、湿度、呼吸、緊張。泡沫魔法は“空気を読む”のに向いている。
だが、泡が鈍い。
医療チームの周囲だけ、泡が踊らない。水面が凪いだみたいに反応が平坦だ。
ミスティアが眉を寄せる。
「……おかしい」
フィオラが振り向く。
「何が?」
「泡が……反応しません……いや、遅れてる?」
ミスティアは泡をもう一つ増やし、レオニスの肩の近くへ寄せる。泡は触れない距離で止まり、ゆっくり沈むように消えた。
「お酒の時と違う“汚れ方”です」
クラリスが警戒した。
「汚れ?」
「はい。たぶん」
ミスティアは言葉を選ぶ。泡の感覚を言語にするのは難しい。
それでも彼女は確実に掴んでいる。
「これは……洗えば落ちる“汚れ”じゃありません」
フィオラが即座に問う。
「なら、どうするの」
ミスティアは、短く息を吐いた。
「でも、洗わないと広がります」
その結論が、医療チームの顔色を変えた。
レオニスが静かに言う。
「方法は」
ミスティアは頷く。
「試します。守護結界を……別用途で」
彼女は両手を広げ泡を集めた。空気中の湿り気が吸い寄せられるように集まり、白い微細な泡が渦を作る。
《泡沫魔法・守護結界:クールドーム》
本来は温度と湿度を制御し、外気と隔離する結界。腐蝕粒子の拡散を防ぐ“遮断”のための術。
ミスティアはそれを遮断ではなく――包むために使おうとしている。
泡が広がった。
ドーム状の膜が医療チームとわたし、クラリスを含めてゆっくり覆う。
冷たいというより、澄んだ感触。呼吸が深くなる。湿度が整う。空気が“均一”になる。
泡圧が優しく皮膚を撫でた。
洗うというより。
余計なものを剥がす。
数秒。
フィオラの目が、ふっと焦点を取り戻した。薬師特有の鋭さが戻る。彼女は小さく舌打ちした。
「……っ」
「どうした」
レオニスが問う。
「戻った」
フィオラはそれだけ言い、すぐに自分の薬袋を開いて中身を点検し始めた。手の動きが速い。正確。迷いが消えた。
レオニスも同じだった。
さっきまで「念のため」が増えていたのに、今は目がすっと前を見ている。判断が速い。情報を即座に整理し、必要な手順だけを残す目になっている。
「……判断が軽い」
レオニスが呟く。軽いは褒め言葉だ。余計な重さが取れたという意味。
そして――
ミレアがその場で膝をついた。
崩れ落ちるような動きじゃない。支えが外れたみたいに、すとん、と座る。
彼女の頬を涙が一筋落ちた。
最初は気づかなかった。あまりに静かに落ちたから。
ミレアは手で頬を触れ、自分の涙を確認して、呆然とした顔になった。
「……あ」
声が震える。今までの彼女なら患者の涙を見慣れている。
だから自分の涙に驚くことはない。
でも今は涙が“戻ってきた”ことに驚いている。
「……戻ってきた」
ミレアの声が熱を持つ。
「感情が戻ってきた」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの胸が痛んだ。
戻ってきたということは。
それまで失われていたということだ。
ミスティアは汗を額に滲ませながら、結界を維持する。
泡はただの防御じゃない。攻撃でもない。洗浄でもない。
……でも、今のそれは確かに“洗浄”だった。
腐蝕ソムリエの侵食を剥がす。
フィオラが歯を食いしばる。
「……こんなの毒じゃない」
レオニスが頷いた。
「環境でもない」
クラリスが低く言う。
「じゃあ、これは何だ?」
レオニスは少しだけ目を伏せた。
「“慣れ”です」
その言葉が場に落ちる。
慣れ。
痛みに慣れる。
悲しみに慣れる。
諦めに慣れる。
失うことに慣れる。
慣れてしまえば、人は動かなくなる。
動かなくなれば、救う側も遅くなる。
腐蝕ソムリエは、その慣れを“完成”と呼んだ。
戦わず、殺さず、役割を腐らせる。
だから恐ろしい。
わたしは拳を握った。爪が掌に食い込む。
お酒で立たせても、医療で支えても。
心が腐れば、すべてが遅れる。
遅れれば、救える人数が減る。
薄い笑いすら出なかった。
「倒すだけじゃ、足りない」
声に出した。自分に言い聞かせるみたいに。
「これは……削り合いだ」
ミスティアが結界を畳み、深く息を吐く。
泡が消えると、外気の湿りと重さが戻ってくる。
だが、さっきまでの“薄い疲労”は、いったん消えていた。
フィオラは即座に言った。
「今の状態を記録する。結界の範囲、泡圧、温度、湿度。再現できなきゃ意味がない」
レオニスも頷く。
「持続時間と再侵食までの時間も計測する。……敵は試している」
クラリスは剣の柄を握り直した。
「戦っていないのに、戦わされているわね」
ミレアは立ち上がり目元を拭った。涙の跡は残っている。でも、目の光は戻っていた。
そのミレアが静かに言った。
「このままなら……救える人数が減ります」
誰も否定できなかった。
進行は止まっている。死者も出ていない。なのに、救える数が減っていく未来が見える。
わたしは瓢箪を見下ろした。
お酒は魔法じゃない。
でも、ここから先は――お酒も医療も、ただの“道具”では足りない。
心を守らなきゃいけない。
守る側の心が腐ったら、全部が終わる。
わたしは深く息を吸った。
甘い匂いが、まだどこかに残っている。
腐蝕ソムリエは笑っているだろう。
戦わずに遅らせて。
“慣れ”を根付かせて。
自分たちの役割を失うのを完成と呼ぶ。
だから――
次は遅れない。
そう決めた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
決意は痛い。
痛いから、まだ感情は残っている。
それだけが今の救いだった。




