腐蝕ソムリエ、初対面
気配がした地下蔵のさらに奥へ続く通路は音が吸われる。
石壁に染み込んだ湿り気が足音を丸くし、灯りの揺れさえも遠慮がちになる。
鼻を突く腐敗臭を想像していたのに、ここにはそれがない。代わりに――
甘い。
果実のようで、樽香のようで、乾いた木の粉のようで。どれも主張しすぎず、混ざりすぎず、ただ「整って」いる。
それが気持ち悪かった。
「……きれいすぎます」
ミスティアが囁く。泡沫魔法使いの声は空気の匂いに押されて、さらに小さくなった。
「そうね」
フィオラが鼻で息を吐く。
「腐ってる場所ほど、掃除が行き届いてるものだ」
灯りが届く先に、放棄された古い醸造施設が口を開けていた。
熟成棚。並んだ空瓶。封をされた瓶。酒樽。樽の刻印。床に落ちた木屑すら、あるべき場所にあるみたいに整列している。蜘蛛の巣がない。埃の層も薄い。人がいないはずの場所が「管理されている」
クラリスが剣の柄に指をかけたまま、低く言う。
「……罠でしょうね」
レオニスは視線を棚の端から端へ走らせ、短く答えた。
「罠というより、舞台です」
舞台。そうだ。ここは誰かのための“見せ場”だ。
わたしは瓢箪の紐を指に巻きつけ、足を一歩踏み出した。
その瞬間だった。
背後から、ぱち、ぱち、と乾いた拍手。
静かな施設の中で、その音だけがやけにくっきり響く。
振り返るまでもない。空気が変わった。香りが、さらに洗練される。怖さが増すのに、気分が悪くならない。むしろ心が落ち着きそうになる――その矛盾が、背筋を冷やした。
棚の影から一人の男が現れた。
武装はない。
外套も鎧も、剣も杖も。手袋すらしていない。けれど、手元は清潔で、爪の先まで整っている。
ソムリエの服装だ。白衣ではなく、黒を基調にした上品な身なり。古い施設には似つかわしくない、場違いな“客”が、当然のようにそこにいる。
余裕の笑み。
戦う意思がない、と言われればそう見える。
だが、逃げる必要もない、と言われればもっと正しい。
彼はゆっくり頭を下げた。礼儀は完璧。だからこそ、侮辱になる。
「ようこそ」
声が静かに、けれど芯を持って届く。
「まだ“味が残っている側”の方々」
見下ろしているのに、敵意がない。
それが刃より鋭い。
クラリスの剣先が半歩前に出た。
「名を名乗れ。ここは――」
「失礼」
男は指先だけで制した。触れてもいないのに、剣が止まる錯覚を覚える。
「名は重要ではありません。皆さんが呼びやすいように――そうですね」
男は棚に並ぶ瓶を撫でるように見つめた。
「“腐蝕ソムリエ”で結構ですよ」
名乗りが自己紹介じゃない。“役割の提示”だ。
ミレアが一歩前へ出ようとした。
けれどレオニスが手の甲で静かに制する。彼の制止は優しい。優しいから、従ってしまう。
腐蝕ソムリエは樽の一本に手を置いた。触れ方が丁寧すぎて、ぞっとする。恋人に触れるみたいな手つきだ。
「良い香りでしょう」
問いではない。評価だ。
「腐蝕とは時間と人の心が作る芸術です」
彼は樽の木目を指でなぞりながら言う。
「完成させるのは酔い。腐らせるのは放置」
フィオラが鼻で笑った。
「詩人ね。酒瓶のラベルにでも書いておけば?」
「薬師の方ですね」
腐蝕ソムリエはフィオラを見た。視線が鋭いのに、温度がない。
「あなたは理解している。酒は薬にも毒にもなる。だからこそ、あなたは“制御”したがる」
フィオラの目が細くなる。
「制御しないものは害になるからよ」
「それは違います」
腐蝕ソムリエは穏やかに否定した。
「制御しないものは芸術になりうる」
わたしは口を挟んだ。
「……くだらない」
自分の声が思ったより低い。瓢箪を握り直す。
「お酒は人を立たせるものだ。芸術だの完成だの、それは酔っ払いの戯言だ」
腐蝕ソムリエの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「あなたは、酒を“道具”として信じている」
「信じてる。立たせるために使う」
「立たせて、どこへ?」
問いが骨に触れた。
一瞬、言葉を失う。
立たせて、どこへ?
次の戦いへ。次の明日へ。生きるために。――言えるはずなのに、口の中で言葉が乾く。
腐蝕ソムリエは、その沈黙を味わうように続けた。
「あなたたちは“完成”を恐れている」
棚の瓶を一つ取り上げる。封蝋が整いすぎていて、工芸品みたいだ。
「痛みが消えるのが怖い。涙が止まるのが怖い。怒りが薄まるのが怖い。……けれど、それらは不完全さの証でしょう?」
ミレアが低い声で言った。
「それは人間らしさです」
「ええ」
腐蝕ソムリエはあっさり肯定した。
「人間らしさは劣化を早める雑音です」
ミレアの肩が跳ねた。怒りが一瞬で顔に出る。
だが彼女は叫ばない。叫ぶより先に手を握りしめる。
レオニスが一歩だけ前へ出た。
「あなたの言う“完成”は症状の固定化だ。治療が届かない状態を美化している」
腐蝕ソムリエは、レオニスを正面から見た。
「医師」
呼び方が肩書きだけ。名前を与えない。
「治療は“現状維持”です。延命は美しくない」
レオニスは眉ひとつ動かさない。けれど、空気が張った。彼は怒りを表に出さない。出せないのではなく、出さない。指揮官の顔だ。
「命を守ることに、美醜を持ち込むな」
「美醜は既にある」
腐蝕ソムリエが言う。
「あなたたちの“救う”という言葉にも」
わたしは舌打ちしそうになった。こいつは言葉を腐らせる。戦わずに価値観を擦り減らす。
腐蝕ソムリエは瓶を棚に戻し、両手を軽く広げた。
「さて」
声が少しだけ冷たくなる。薄い布を一枚被せるような変化。
「あなたたちは遅い」
その一言が地面を沈ませた。
遅い。
腐蝕ソムリエは怒鳴らない。嘲らない。淡々と言う。だから逃げ場がない。
「酒はすでに街に染み込んでいます。ここ以外にも」
彼が指先で床を示す。石の隙間、樽の木目、空気の湿り気――この施設が街そのものの縮図みたいに見えた。
「味覚が失われても人は生きる」
ミスティアが顔を青くする。泡の感覚が彼の言葉に反応している。
「感情が鈍くなれば争いも消える」
腐蝕ソムリエは笑う。
「救済でしょう?」
わたしの喉の奥が焼けた。
「それは生きてるって言わない!」
言い切った瞬間、胸が少し痛んだ。さっきの村人の顔がよぎる。笑っていた。助けを呼ばなかった。楽だった。
腐蝕ソムリエは首を傾げた。
「生きる定義は誰が決める?」
その問いは、わたしの拳を空振りさせる。
わたしは力で決めてきた。倒す力。立たせる力。
けれど定義は力で決まらない。決めた瞬間に押し付けになる。
フィオラが一歩前に出た。薬師の声は鋭い。
「おまえは人を“戻す気がない”」
腐蝕ソムリエが、心底不思議そうな顔をした。
「戻す?」
笑みが薄くなる。代わりに理解できないものを見る目。
「なぜ完成品を壊すんです?」
その瞬間、確信した。
こいつは治す気がない。
症状を“完成”と呼び、それを守ることを善とする。
医療が向かう先と真逆だ。
クラリスの剣が、わずかに光を反射した。彼女の怒りは単純だ。単純だから強い。
「……貴様」
だが、レオニスが即座に手を上げた。
「抜くな」
命令ではない。指揮官としての判断だ。
ここで斬れば相手の土俵に乗る。あいつは戦わない。戦う必要がない。斬る側が“悪者”になる構図を用意している。
腐蝕ソムリエは、そのやり取りすら楽しむように目を細めた。
「素晴らしいチームです」
褒め言葉なのに吐き気がする。
「攻める者、守る者、支える者。……でも遅い」
また、その言葉。
遅い、遅い、遅い。
それが呪いみたいに耳に残る。
「私は攻撃しません」
腐蝕ソムリエは両手を見せた。
「武器は持たない。血も流さない。……必要ない」
そして、棚の一番上から一本の酒瓶を取り出した。
透明な瓶。中身も透明に近い。ラベルはない。封は完璧。揺らしても、濁りが一切出ない。
“安定しすぎている”。
腐蝕ソムリエは、その瓶を床に置いた。丁寧に。贈り物を置く動作だった。
「お土産です」
フィオラがすぐに反応した。腰の鞄から手袋を取り出し、瓶に触れようとして――止めた。触れたくないのに、触れないと確認できない。薬師の葛藤が指先に出る。
レオニスが短く言う。
「触れるな。まず、観察」
ミスティアが泡をひと粒浮かべ、瓶の周囲を回す。泡がいつもより静かに漂う。反応が少なすぎる。
「……毒ではありません」
ミスティアが言う。確信ではない。不気味な“否定”だ。
フィオラが歯を食いしばるように息を吐いた。
「腐蝕でもない」
ミレアが瓶を見つめたまま言った。
「……でも、飲んだら……戻れない気がします」
誰も否定できない。
腐蝕ソムリエは満足そうに頷いた。
「治したいなら、急いでください」
声が優しい。優しいから、余計に恐ろしい。
「腐蝕は待ってくれませんから」
彼は一歩下がった。
その動きに合わせて、香りが薄くなる。いるのに、離れていく。
「次に会うとき、あなたたちがまだ“味が残っている側”かどうか……楽しみにしています」
そう言って、腐蝕ソムリエは施設の奥へ歩き出した。
追おうとした瞬間、ミスティアが息を呑んだ。
「……消えます」
言葉通りだった。
霧みたいに、輪郭が薄れた。
魔法の光でも、闇でもない。存在が「当然のように」背景に溶ける。
気づけば、そこにはいない。
施設は何も壊れていない。
棚は整列したまま。樽は並んだまま。瓶は静かに眠ったまま。
なのに、わたしたちの中だけが乱れている。
わたしは床に置かれた透明な瓶を見下ろした。
瓢箪の紐が指に食い込む。
戦っていない。
斬っていない。
殴ってもいない。
それなのに、負けたみたいな気分だった。
レオニスが低い声で言う。
「撤退します。……今は」
フィオラが頷く。だが視線は瓶から離れない。
「持ち帰るわ。検査する。――触れないように封ごと」
ミレアが小さく言った。
「……あれは人を壊すための“酒”じゃない」
わたしが答える前にミスティアが続けた。
「人を……静かにするための何かです」
わたしは瓶を見つめたまま、喉の奥で呟いた。
「……遅い、か」
その言葉を、わたし自身が嫌っていた。
遅いから、救えない。
遅いから、戻らない。
遅いから、間に合わない。
腐蝕ソムリエは、それを知っている。だから戦わない。戦わなくても勝てると知っている。
瓢箪を握り直した。
眠らせる酒とは戦う、と言った。
けれど――あいつは酔わせない。
もっと静かに、心を眠らせる。
戦っていないのに削られる。
それが、わかってしまった。
透明な瓶が灯りの中で一瞬だけ光った。
まるで「まだ間に合う」と言うみたいに。
でも、その光は冷たい。
わたしたちは瓶を封ごと包み、施設を出た。
背後の静けさが追ってくる。
腐蝕は待ってくれない。
そしてきっと――
戦いも待ってくれない。




