酒の罪
地下蔵の入口に近い路地は、朝なのに薄暗かった。
陽が届かないからじゃない。人の顔が光を反射しないからだ。
石畳の上を歩く足音はある。荷車の軋みも、店先で交わされる挨拶も、ちゃんと聞こえる。なのに、全部が「表面」だけを滑っていく。湯気のない朝食みたいな街。
わたしは瓢箪を腰で鳴らさないよう、指で口元を押さえたまま歩く。
隣を行くミスティアが、鼻先で空気をすくうように息を吸った。
「……妙です」
声が小さい。いつもなら「妙ですね」って、もっと丁寧に言うのに。
「匂い?」
「匂いはあります。けれど……泡が落ち着きすぎています」
泡沫魔法使いの感覚は、わたしの舌より正確だ。空気の“揺れ”を、肌で読む。
前を歩くレオニスが振り返らずに言った。
「落ち着いているのなら、良い。……本来は」
その「本来は」が朝の冷気みたいに首の後ろに貼り付く。
フィオラが革の鞄を抱え直した。瓶が中で触れ合い、軽い音を立てる。薬草の匂い。金属の匂い。そこに甘い残り香が混ざっている。
お酒の匂いだ。飲み屋のお酒じゃない。保存酒、薬酒――治療に使う、低い度数の“安全なやつ”。
「昨日までは、確かに落ち着いたのよ」
フィオラが言う。
「痛みを訴える人も減ったし、吐き気も治まった。……でも」
立ち止まっていた村人が、わたしたちに軽く頭を下げた。
「おはようございます。先生方」
先生。医者にだけじゃない。治療拠点の全員が、そう呼ばれている。
その男は笑っていた。
笑っているのに――目が笑っていない。
そして、怖がってもいない。
怖がらないのは勇気があるからじゃない。怖がるための“波”が起きない。
湖面に石を投げても、波紋が広がらないみたいな。
ミレアが男の顔を覗き込んだ。看護と精神ケアの目は外側じゃなく“内側”を見る。
「……身体は大丈夫ですか?」
「はい。すごく楽です。胸も苦しくないし、頭も重くない。先生方のおかげです」
言葉は丁寧で、感謝もある。けれど――そこに熱がない。
ミレアが、ほんの少し眉を寄せた。
「……不安は?」
男は考える素振りすら見せずに首を傾げる。
「不安? ……ああ、そうですね。あります。……あった、はずです」
まるで、他人の話をしているみたいに。
背中に薄い汗が浮いた。
お酒を飲ませていないのに。
飲んだ後みたいな顔をしている。
息を吐きながら、心の中で呟く。
(これ……助かった顔じゃない。酔いが残ってる)
治療拠点に戻ると、レオニスは簡易地図の上に木片を並べ始めた。地下蔵周辺の区画、症状が落ち着いた家、再発した家――“動き”の整理。
その横でフィオラが机に並べた瓶の蓋を一つずつ開け、匂いを確かめる。薬師の動きは料理人より繊細だ。香りで配合がわかると言っていた。
ミスティアは窓際で泡をひと粒だけ浮かべた。小さな泡が空気を撫で、揺れて、薄く広がる。
ミレアは布に包んだ器具を拭きながら、さっきの男の顔を思い返しているのか、手が止まる瞬間が何度もあった。
わたしは机の端に腰をかけた。
瓢箪の口が背中側で軽く鳴った。わたしに「出番?」と聞いてくるみたいに。
「フィオラ」
レオニスではなく、わたしが呼んだ。
「何が起きてるの?」
フィオラは目を上げず、瓶の中身を小皿に落とした。透明。けれど光を受けると、ほんのわずかに粘る。
「保存酒と薬酒の残留成分を調べた。……正確に言うと、“調べさせられた”って感じね」
「どういう意味?」
「成分自体は異常じゃない。むしろ整ってる。濁りがなくて、不純物が少ない。……“効き”が良すぎる」
フィオラが指先で小皿を傾ける。液体が薄く広がり、光の中で滑る。
「身体は楽になる。痛みが遠のく。吐き気も、胸の圧迫も、眠れない夜も。……全部、穏やかに薄まる」
「それ、いいことじゃないの?」
反射で言った瞬間、ミレアが小さく息を吸った。
フィオラはようやく顔を上げた。眼差しが冷たいわけじゃない。冷静なだけ。だから刺さる。
「それは違う。治療じゃない」
断言。
「これは……長期麻酔だ」
その言葉が落ちたとたん、空気が少しだけ重くなった。
レオニスが目を伏せた。否定しない。
ミスティアは泡を消した。泡が消える瞬間の「ぱちん」という音が、やけに大きく聞こえた。
「麻酔?」
わたしは喉の奥が乾くのを感じながら言った。
「お酒は……痛みを和らげることもある。薬酒ならなおさら。けど、それって悪いこと?」
フィオラは視線を机の上に落とし、薬包紙を一枚折った。折り目が鋭い。
「判断力と抵抗力が落ちるの。痛みって、身体が出してる警報でしょう?」
「……」
「警報が鳴らなければ、人は火の中でも笑う」
その言葉の意味を、すぐ理解した。
理解したくなかったけど。
午後、村の外れで小さな騒ぎが起きた。騒ぎというには静かすぎる。
古い家の軒先で、乾いた藁束が燃えた。火は大きくない。
けれど、風が吹けば広がる程度には十分。
わたしたちは駆けた。
――駆けたのは、わたしたちだけだった。
近くにいた住民が燃えている藁束を眺めていた。困っていない顔で。笑ってすらいる。
「……大丈夫ですから」
誰かが言った。
大丈夫って何が。火があるのに。家が燃えるのに。
ミスティアが泡で水を作ろうと手を上げるより早く、クラリスが井戸から桶で水を汲み、躊躇なくぶちまけた。火が蒸気を上げて消える。
それでも、住民たちは慌てない。
助けを呼ばない。
誰も走らない。
ただ、燃えるものを眺める。映画を見ているみたいに。
わたしの胃の奥がゆっくり冷えた。
(立ち上がらせる力が、立ち上がらなくていい力に変わってる)
消えた火の跡を見下ろしながら、ミレアが震える声で言った。
「……感情が凪いでます」
レオニスが住民に向き直る。短く、強い声。
「もし火が大きければ、あなた方は死ぬ。なぜ助けを呼ばなかった」
住民は首を傾げた。
「……そうですね。呼ぶべきでした。けれど、なんというか……」
言葉を探す顔ですらなかった。
「面倒じゃなかったんです。あまり」
面倒じゃない。
それは安心じゃない。諦めでもない。
麻痺だ。
治療拠点へ戻る途中、わたしはつい口にしてしまった。
「……楽なら、それでいいんじゃないのかな?」
言った瞬間にクラリスの足が止まった。
ミスティアが、わたしを見た。驚いたというより、怖がっている目だった。
レオニスは答えなかった。答えないことで、わたしの言葉をそのまま返した。
フィオラだけが、はっきりと言った。
「良くない」
短く。切れるように。
「楽っていうのは、時に生存の敵になる」
その言い方が薬師じゃなく戦場の人みたいだった。
夜。治療拠点の裏手。冷えた風が布を揺らし、木の葉が擦れる。
わたしは瓢箪を握ったまま、フィオラと向き合った。
逃げないための場所に来たのに、逃げ道を持ってきたみたいで、自分が嫌になる。
「フィオラ」
「なに」
「わたしのお酒の話だろ」
フィオラの目が、わたしの瓢箪に落ちた。憎んでいるわけじゃない。恐れているわけでもない。――理解している目だ。
「あなたの酒も、同じ危険を持ってる」
言葉が胸の真ん中に刺さった。
「わたしは救ってきた」
声が少し強くなる。強くしないと、崩れそうだった。
「倒れてた奴を立たせた。泣いてる奴を笑わせた。死にかけの仲間を、もう一歩前に出させた。……それが、罪だって言うの?」
フィオラは一瞬も怯まない。
「ええ。だからこそ言う」
叱るんじゃない。裁くんでもない。現実を置く。
「酒は“癒し”にもなるし、“逃げ道”にもなる」
その台詞は焚き火のない夜に落ちる火種みたいに熱かった。
「正しく使えば、武器。間違えれば――心を眠らせる毒になる」
言い返そうとした。
けれど、喉の奥に言葉が引っかかった。
さっきの火事。笑う住民。大丈夫ですからの声。
あれは、わたしが嫌ってきた“酔い”と同じ顔だ。
それがお酒のせいだけじゃないとしても。
わたしの中でいつかの別の記憶が浮かぶ。
戦いのあと、お酒で立ち上がった人がいた。
わたしが一杯を渡して、肩を叩いて「行ける」と笑った人。
――その後、どうなった。
覚えていない。
覚えていないんじゃない。見ていない。
視線は、いつも次の敵に向いていた。次の戦場。次の勝利。次の杯。
(立たせたあと……わたしは見てなかったのかもしれない)
沈黙が伸びた。
背後で教会跡の扉が軋んだ。レオニスが外に出てきた。こちらを見て、止まる。
フィオラは視線を逸らさずに言う。
「酒に罪はない」
その言葉は救いみたいで、同時に逃げ道も塞いだ。
「罪があるのは――使い手と目的だ」
わたしは拳を握った。瓢箪がきしむ。
「なら……」
声が震えそうになるのを抑えた。
「わたしは、人を眠らせる酒と戦う」
宣言のはずなのに、誓いに聞こえた。自分を縛る言葉。
ミスティアが扉のところから近づいてきた。泡沫魔法使いの顔色がいつもより白い。
「……伊吹さん」
「どうしたの?」
ミスティアは喉を鳴らし、言いにくそうに言った。
「腐蝕反応が……整いすぎています」
「整いすぎ?」
「はい。乱れがないんです。本来は揺れるはずです。温度、湿度、菌の偏り……でも、今は……綺麗すぎる」
フィオラが鼻で笑った。
「芸術気取りね」
その皮肉は怒りじゃない。警戒だ。
レオニスがようやく口を開いた。
「……来ます」
その一言で、わたしたちは同じ方向を向いた。地下蔵のさらに奥。祝宴用の酒樽を一時保管しているという、放棄された醸造施設の方角。
足を踏み出した瞬間、わたしは気づいた。
村が静かすぎる。
虫の音も、犬の鳴き声も、遠くの喧騒も――薄い。
世界が音量を下げている。
そして、どこからともなく声がした。
静かでよく通る声。怒りも焦りもない。
「罪だなんて」
くすり、と笑う音が聞こえる。
「美しいじゃないですか」
わたしの背中を冷たいものがなぞった。
酒の匂いがした。
でも、腐っていない。むしろ洗練されている。
それが、いちばん気持ち悪かった。




