医療の限界
昨夜の薬草の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
教会跡の天井は半分崩れていて、梁の隙間から夜明けの光が薄く差し込む。外壁の石は冷たく、床板のない場所には藁が敷かれ、そこに簡易ベッドが並んでいた。
患者は増えた。
でも――急変は止まっている。
誰かが「助かった」と言いそうな空気が、いまにも生まれそうで生まれない。
空気は薄いスープみたいにぬるく、飲み込んでも腹に落ちないまま喉の奥に残る。
フィオラ・リーネが巻物のようにまとめた紙束をめくりながら、淡々と報告する。
「夜間の再発、なし。痙攣は二例だけ。どちらも追加の抑制で落ち着いた。血中反応――数値は横ばい」
彼女の声は落ち着いていて、そこで働く手も迷いがない。薬師の手だ。錠剤の形状、煎じ液の濃度、患部の冷却、脈拍の計測。全部が決まった動きで進んでいく。
「進行は……止まってます」
その一言が落ちると、周囲の肩が一瞬だけ下がった。
看護役のミレアが、患者の額に触れる指を止めて、ほんの少し息を吐く。
クラリスも壁際で腕を組んだまま、視線だけをやわらげる。
ミスティアは泡を薄く展開していた手をいったん引いた。
――止まった。
それは救いの言葉に見える。少なくとも、戦い慣れしたわたしの感覚では「勝ち」に近い響きだった。
なのに。
ベッドを見回す。
苦しそうなうめきは減っている。のたうつくような痛みもない。皮膚の変色も、昨日の夜よりは落ち着いている。呼吸は整い、目を開けている人もいる。
それでも――
誰も安心していない。
目が揺れていない。
助かった人間の顔は、もっと勝手に泣く。笑う。怒る。軽口を叩く。泣きながら「生きてる!」って叫ぶ。
ここにあるのは、そういう類の熱じゃない。
(これ、“助かった”顔じゃない)
わたしは自分の瓢箪を腰のベルト越しに確かめた。いつでも飲める。いつでも立てる。いつでも笑わせられる――はずだった。
でも、今日は手が伸びない。
レオニス・ヴァルトが、入口のあたりで治療器具の配置を確認している。彼の動きは無駄がなく、視線は冷静だ。医師の目は戦場の目よりも硬いと、わたしは昨日知った。
彼は「勝った」と言わない。
言えるはずなのに。
朝の作業が一段落したところで、レオニスが一人の患者のところへ向かった。
中年の男。職人だと聞いた。手の指が太く、爪の隙間に落ちない汚れが残っている。作業で傷ついた掌は、薬で癒えても「生き方」までは洗えない。
男は上体を起こし、表情も声も落ち着いていた。
「先生。歩けます。ほら」
実際、彼は立ち上がって数歩歩いた。歩き方は少しぎこちないが、倒れそうではない。
喋り方も普通だ。昨日までの歯を食いしばるような苦しさは消えている。
隣でフィオラが脈拍を測り、短く頷く。
「循環は安定。反応も抑えられてる」
ミレアが近づき、男の目を見て声をかける。
「気分はどうですか? 怖いとか、不安とか、あります?」
男は少し首をかしげた。
「怖い? ……いや。まあ、死にかけたのは覚えてるけど、今は……なんというか、落ち着いてる」
その返答に、周囲がまた少しだけ緩む。
――ほら、良くなってる。
そう言いたくなる。
わたしも言いかけた。
だけど、ミレアの眉がほんのわずかに寄ったのが見えた。彼女は精神の揺れを読む人だ。その表情は「良い兆候」ではなく「欠落」を嗅ぎ取った顔だった。
ミレアは違う角度から言葉を投げる。
「好きな料理、あります? 落ち着いたら食べたいものとか」
男はそこで初めて黙った。
笑って誤魔化すでもなく、困った顔になるでもなく、ただ――考える。
長い沈黙。
やがて、彼は小さく言った。
「……何が好きだったか、思い出せない」
声に焦りがない。
それが、いちばん怖かった。
脳が壊れた人の混乱じゃない。悲しみを失った人の空洞でもない。もっと静かで、もっと確実な欠落だ。
ミレアの指が男の手を握ったまま固まる。
フィオラは薬袋を握ったまま視線を落とし、ほんの一瞬だけ歯を噛んだ。
レオニスは、男の目を見た。
「仕事の道具は?」
「それは覚えてます。手の感触も。寸法も。……でも、家で何を食べてたかが、急に……」
男は笑っていない。泣いてもいない。ただ、事実を列挙している。他人の話をするように。
わたしの背中が冷えた。
「……治ったんじゃないの?」
口から出たのは、祈りみたいな言葉だった。
レオニスはこちらを見ない。患者を見たまま、静かに答える。
「毒性反応は抑えられている。命は繋がっている。循環も、神経も、最低限は保てている」
フィオラが続ける。
「でも“回復”じゃない。治療は――ここから先、維持だけ」
わたしは言葉を失う。
維持? 止まってるのに?
止まったなら、戻るんじゃないのか。酒だってそうだ。酔いが抜ければ、正気に戻る。毒を止めたなら、元に戻る。
レオニスがようやくこちらに視線を向けた。
その目は慰める目ではない。説明する目、医師の目だ。
「進行停止は、“回復”ではない」
淡々とした声が、わたしの胸の奥に釘を打つ。
「命は生きている。だが、失ったものは戻らない。味覚、記憶、感情、理由。どれが消えるかは個体差だ。戻ることもある。戻らないこともある」
男が、ぽつりと頷く。
「……そうか。俺は……思い出せないのか」
その諦めは怒りにもならない。泣き声にもならない。
ただの了承だった。
わたしは思った。
この状態は救いなのか。
わたしは酒で立たせることに慣れすぎていた。
立つこと=回復。
笑うこと=救い。
戦いで倒れる前に立たせれば、それで良い。
でも、ここでは――立っているのに戻っていない。
レオニスの声がさらに低くなる。
「我々はそこまでしかできない」
教会跡の空気が、また重くなる。
希望が砕けた音はしない。砕けたのに静かだ。
昼が過ぎ、夜が来る。
治療拠点の外は冷たい風が吹いていた。
街道の先に灯りは少なく、遠くで犬が吠える。
夜はいつもより静かで、静かすぎて不安が膨らむ。
わたしはレオニスを呼び止めた。
彼は外壁の影で治療記録を見直していた。
火の魔石の灯りが彼の横顔を硬く照らしている。
「……それでも、助けたって言えるの?」
自分でも、ひどい質問だと思った。
医師に向ける言葉じゃない。
戦場で誰かを殴ってきた人間が守る側の努力を踏みにじる質問だ。
でも、聞かずにいられなかった。
レオニスはすぐに答えない。
髪を閉じる。視線を上げない。風の音だけがその沈黙を埋める。
やがて、彼がぽつりと言う。
「昔、同じような患者がいた」
胸が少しだけ縮む感覚がした。
「治療は間に合った。毒も止めた。身体は動いた。会話もできた」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「……だが、その人は」
続きを言わない。言えないのか、言わないのか。
わたしは黙って待った。
レオニスは夜の闇を見つめ、もう一度だけ口を開く。
「自分が“生きている理由”を失った」
それだけで十分だった。
死因も、関係性も、誰だったのかも、語られない。
でも、わたしの頭の中に、静かな結末が形を取る。
「数年後、静かに命を終えた」
レオニスの声には、怒りも悲しみもない。
それが逆に痛い。
医師は泣けない。泣いても仕方がない現実を見続けるから。
喉の奥が熱くなるのを堪えて、少しだけ笑ってしまった。
「……それ、助けたって言えるの?」
同じ問いを繰り返した。しつこい。子どもみたいだ。
レオニスはようやくこちらを見る。
その目には誤魔化しがない。
「英雄は敵を倒せばいい」
それは、こっちの領分だ。
倒す。殴る。破壊する。勝つ。派手に救う。
レオニスの声が続く。
「だが、我々は」
彼は息を吐く。
「倒した後の命を背負う」
その一言が、わたしの背骨を真っ直ぐにした。
背負う。背負うのか。
わたしは今まで、背負っていたつもりだった。立たせた人間を見送るたびに「良かったな」と言って、次の場所へ走った。
でもそれは――“立った瞬間”しか見ていない。
倒した後に残る命は、そんなに単純じゃない。
レオニスは、淡々と結論を置く。
「治せないから、撤退することもある」
眉をひそめる。
「撤退?」
「救えない場所に踏み込めば、こちらが壊れる。壊れれば、救える命も救えなくなる。医療は万能ではない。万能でないからこそ、限界を選ぶ」
合理的だ。
正しい。
だけど、胸がざらつく。
わたしの戦いはいつも前に出る。無理でも出る。後退は負けだと思っていた。
だけど、医療の世界では違う。無理に踏み込んだ結果、全員が壊れる。
レオニスは短く続けた。
「それでも止める。壊れきる前に」
“止める”。
倒すじゃない。
止める。
わたしはその言葉を噛み締める。
(お酒なら、もっと派手に救える)
そう思う自分がいる。
だって、わたしのお酒は人を立たせる。痛みを忘れさせる。恐怖を消して、笑い声を戻す。戦場ではそれが正義だった。
でも――
今日、見た男の顔が頭から離れない。
苦しみが消えて、安心も消えた顔。
楽になったのに、好きなものが思い出せない顔。
それは「救い」なのか。
それとも「麻痺」なのか。
そのとき、背後からフィオラの足音がした。彼女は夜風に髪を揺らし、こちらを見て、短く言う。
「酒は便利よ」
わたしは反射的に言い返しそうになって、やめた。彼女の声は攻撃ではない。確認だ。
フィオラは続ける。
「だからこそ――使い方を間違えると、麻酔になる」
胸の奥が冷たくなる。
麻酔。
痛みを消す。苦しみを消す。動けるようにする。
でも、同時に――判断も、抵抗も、奪う。
わたしは瓢箪に触れた指を、ゆっくり離した。
レオニスが、遠くの闇を見ながら言う。
「次に現れる相手は」
その声が夜の静けさを裂く。
「治療の届かない場所にいる」
喉が鳴る。
倒せば終わる相手じゃない。止めても戻らない傷を残す相手だ。
自分の胸の中で言葉を組み立てる。
(倒すだけじゃ、足りない)
でも――
(止めなきゃならない)
夜風が冷たい。
教会跡の中から、誰かの寝息が聞こえる。命は繋がっている。
けれど、戻らないものがある。
それでもわたしたちは、前に進むしかない。
壊れきる前に止めるために。




