盗まれた酒
――まさか、あれが盗まれるなんて。
泡鳴区の片隅、わたしたちが精魂込めて漬けた梅酒の瓶が忽然と姿を消していた。
「……ないわよ」
最初に気づいたのはクラリスだった。
いつものように酒蔵の温度確認をしようと、棚を見上げて眉をひそめる。
「確かにここにあったわ」
「は? いやいや、まさか盗まれるなんて、こんな場所で……」
でも、ノアの手元にある記録板にはこう表示されていた。
『日付変更以降、酒蔵内の温度が0.2度上昇。湿度も微量に変化』
「侵入があった可能性が高い。これは偶然じゃない」
ノアの冷静な言葉に全員の顔が強張る。
こんな早い段階で、誰かが“狙って”きたというのか?
「見てください。ここ……」
ミスティアが瓶が置かれていた棚の下にかがみ込み、床の粉塵を払った。
そこには――微かに残る土付きの足跡。ヒールのような細い靴跡がひとつだけ。
「……あーもう、冗談抜きで酒泥棒ってやつか」
わたしは頭を抱えた。
自分たちの技術が注目されるのは悪い気がしないが、よりにもよって盗むってなんなんだ。
怒りで胃の底がぐつぐつと煮え始めるのを感じた。
◆
数時間後、ノアがある情報を持って戻ってきた。
「泡鳴区の裏市場で“幻の梅酒”ってやつが出回ってるそうだ」
「幻? ……まさか」
「ああ。商品説明に“夕梅珠を使い、熟練の手で漬けられた特別な味”って書いてあった」
「……それ、うちの酒じゃん!!」
頭に血が上った。
ミスティアがすぐに泡沫魔法を展開。
空気中に残された残り香を取り出す。
「《泡沫魔法・残香追跡:バブルトレース》」
泡がふわりと漂い、静かに扉の外へと導いていく。
「痕跡が残ってます。……追えます!」
「じゃあ、決まりだな」
わたしは瓢箪の栓を確認しながら、笑みを浮かべた。
「盗人どもに、お仕置きの時間だ」
「……伊吹さん、あくまで“回収”が目的ですよ?」
「もちろん。“楽しく回収”してくるだけさ」
「その言い方が一番危ないのよ」
クラリスの呆れ顔を背に、わたしたちは泡の道を追い始めた。
◆
夜が深まる泡鳴区の裏路地。
細い石畳の先に、小さな建物があった。
明らかに胡散臭い看板が立っている。
店の前には妙に気取った男たちがたむろしており、酒瓶を掲げて談笑している。
「あれは闇ギルド《黒瓶商会》だ」
ノアが声を潜めてつぶやく。
「闇ギルド? そんなものがあるのかこの世界は?」
「表があるから裏があるんだよ。ここはどうやら臨時拠点のようだ」
「なんでわかるの?」
「こんな人目があるところに本拠地は構えないだろ。それに人が少ない気がする」
「なるほどね。ミスティア、どう?」
横で泡沫魔法を展開しているミスティアに尋ねる。
「間違いありません……あの男がもっている瓶、色も形も、私たちのと完全に一致しています」
クラリスが静かに剣に手をかけた。
「行こう。穏便には済ませられないわよ」
「その前に、ちょっとだけ見せてくれ」
わたしは店の裏手に回り、板壁の隙間から中を覗いた。
――あった。あの瓶だ。間違いなく、わたしたちが漬けた、あの一本。
その横には、やたら派手なラベルが貼られていた。
《高貴なる幻の梅酒・極》
ふざけやがって。
それを見たエルミナは静かに息を呑み、そして唇を噛んだ。
「……これは、祖父の味じゃない。こんな、ぬるい酒じゃなかった」
声は震えていた。
でも、その眼は怒りで燃えていた。
「気持ちがね、入ってないんだよ、たぶん」
わたしは言った。
「お酒って、手間と素材と……それから、気持ちも一緒に漬け込むもんでしょ? だから、それを盗んだやつにだけは、絶対に味わわせたくねぇ」
クラリスがすっと立ち上がった。
「合図をして、伊吹。全員で突入する」
「よし……“お楽しみの時間”だ」
わたしたちは、泡のように静かに、そして酒精のように熱く、扉を蹴り破った――。




