瓶と時間と、熟成の理
――酒は時の器である。
封をしてしまえば、もう触れられない。
手を入れれば壊れてしまう。
でも、ただ放っておくだけではいいものはできない。
だからこそ「管理」が命になる。
「……つまり、ここからが本番ってことか」
瓶の中、夕梅珠と氷砂糖と焼酎が沈む様子を眺めながら、わたしはぼそりとつぶやいた。
「その通りだ」
横からノアが頷く。
相変わらず真顔で、視線は実験室の研究員のようだ。
「梅酒は仕込んだら終わりじゃない。そこからが“育てる”工程。温度、湿度、光、振動……すべての環境が、味に影響を与えるのよ」
「まるで王女の教育みたいですね」
ミスティアが泡の杖をくるくると回しながら笑う。
「環境次第で、伸びる子もいれば、腐る子もいる――なんて」
「重っ」
わたしは笑いながらも、密かに瓶をそっと撫でた。
なにせ、仕込んだのは一期一会の“夕梅珠”。
予備の分はあるが、できればやり直したくない。
飲むのが遅れてしまうからだ。
これ以上我慢したくない!
「具体的にはどんな注意点が?」
「まず、温度だな」
ノアは指を一本立てる。
「理想は15〜20度。これより高いと香りが飛ぶし、低すぎると発酵が止まる」
「……ってことは、わたしの部屋、ダメじゃん。だいたい25度あるし、夏場はもっと暑い」
「当然、遮光も必須。紫外線は酒にとって毒だから、瓶を布で覆うか、直射を避ける場所に置くこと」
「振動も厳禁だそうですよ。常に揺れてると、梅が崩れて濁るらしいです」
ミスティアが読み上げるように補足する。
「つまり……静かで、涼しくて、暗い、そんな部屋が必要ってことだ」
「もしくは、酒専用の蔵ね。そろそろ本格的に作るべきかも」
クラリスが梅酒から視線を上げ付け加える。
「……うちの拠点、倉庫はあるけど、振動までは防げないからね」
倉庫は温度と湿度が保たれているが耐震設計はされていない。
少しの揺れないら問題ないが、梅酒を造るとなればもう少ししっかりした酒蔵が欲しいところだ。
「そこらへんは大工にいつか相談してみましょう」
クラリスがきっぱりと言って、瓶に視線を戻した。
「それにしても……見て、この色」
瓶の中、透明だった焼酎がほんのりと金色に染まり始めている。
夕梅珠から溶け出した香りとエキスが、ゆっくりと酒に広がっていく様子はまるで雲の中に光を注ぐみたいだった。
「……これって、もう飲めたりしない?」
「伊吹さん、だめですよ」
「我慢なさい」
「冗談だってば」
即座にミスティアとクラリスに止められ、肩をすくめる。
「で、どのくらいで完成するの?」
「最低でも三ヶ月」
ノアはきっぱり言った。
「そこから半年、一年……熟成が進むごとに香りがまろやかになり、旨味が深くなる。でも“三ヶ月”で、まず“原型”はわかる」
「つまり、三ヶ月は“お預け”ってことか……」
わたしは瓶を眺めながら、重々しくうめいた。
「くっ、なんてこった……わたしの口が、いちばん待てない……!」
「今、心底どうでもいい悩みを聞いた気がする」
「“待てない舌”を鍛えるのも修行ですね」
「もう一度エルフの修業いってみる? 私とミスティアは梅酒を管理してるから」
ふたりのつっこみに、わたしは手を合わせて謝った。
「ごめんなさい。それだけは嫌です。でも飲みたい。正直者です」
「……じゃあ、こうしようか」
ノアがふと目を伏せ、もう一本、空の瓶を取り出した。
「これは試験用。小瓶に分けて短期熟成のサンプルを作っておく」
「つまり?」
「三ヶ月待たなくても、味の変化を確認できるってこと。味の“経過”も学べるし、今後の熟成にも役立つ」
「おおお……ノアさま、神!」
わたしは拳を握った。
「天才かよ……」
「でも、あくまで試験用だからね? 本命の瓶には、絶対に手を出さないでよ」
クラリスが鋭い視線を飛ばす。
「はい……」
わたしはしゅんと肩を落とした。
◆
その日の夕方、小瓶の“試験用”梅酒も仕込み終え、すべての瓶が静かに並んだ。
並ぶ瓶の数、計八本。
色も透明感も、梅の配置も、わたしたちの手で揃えられた“味の種”。
あとは、時間に委ねるだけ。
「……静かな部屋って、なんか、いいですね」
魔法で安定化された専用庫の中。ミスティアが壁に寄りかかりながら、ぽつりと呟いた。
「生きてる感じがします。音がしないのに、何かが育ってるって、不思議です」
「たしかに……音はないけど、気配はあるな」
わたしもその隣に座り込み、目を閉じた。
静かな瓶の中に、未来が沈んでいる。
きっと、旨くなる。きっと、届く。
そう信じられる空間だった。
◆
夜。
伊吹亭のリビングで、わたしたち三人とノアが軽く乾杯を交わす。
エルミナは一足先に帰路についた。
「子供は門限があるからね」と言ったら、
「……一応成人してます」とふくれっ面で返ってきた。
年上幼女のふくれっ面は破壊力が高く、危うく梅酒に手を伸ばしそうになった。
当然のごとくクラリスに止められたけど。
「今日はお疲れ様」
「まだ始まったばかりですけどね」
ミスティアがほほ笑みながら、炭酸水を口に運ぶ。
「“育てる酒”かぁ……。いつもみたいに、飲んで騒いでドカンじゃないってのは、なんかこう……しみじみくるな」
わたしがつぶやくと、クラリスが頷いた。
「造った酒の変化を待つ。これはきっと、私たち自身の成長にもつながるわね」
「育てるって、そういうことか……」
わたしはグラスの炭酸を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「じゃあ、わたしもちょっとだけ、育てられてんのかな。あの酒たちにさ」
「そうですね。伊吹さん、今日、一度も飲んでませんでしたし」
「奇跡ね」
「なんでみんな、そんなに感動してんの……?」
でも――悪くない。
待つ時間も、旨い酒の一部なんだ。
そんな気がした。




