選び、漬けて、封をする
――酒は、生きものだ。
それを今日ほど実感したことはない。
「見てください。この張りと色艶……まさに夕梅珠の中でも“特選”にあたる実です」
エルムナの祖父の梅農園、柔らかな朝日が差し込む梅林の中。
手にした竹籠の上、淡紅に染まった小粒の梅が鈴なりに転がっていた。
名前の通り、夕暮れのような橙と紅を混ぜたようなその色は、どこか懐かしくて、だけど見たことのないような美しさだった。
「たしかに、これは……ちょっと食べたくなる」
わたしがぽつりとつぶやくと、隣でクラリスがピシャリと手を叩いた。
「ダメよ伊吹。これはお酒にするんだから」
「わかってるよ、冗談冗談」
「冗談に思えないのが伊吹なのよ」
「ふふ、伊吹さんならやりかねませんから……」
ミスティアが頬に指をあてて笑った。
どうやらわたしの食い意地の信頼度が無駄に高まっているらしい。
「……ところで、その夕梅珠って、どのくらい貴重な品種なの?」
わたしが素朴な疑問をぶつけると、エルミナが静かに答えた。
「年に一度、ほんの十日ほどしか収穫できません。そして、木の数も限られてます。祖父はこの梅を一年分大事に使って、酒にしてたんです」
「なるほど。じゃあ、梅の選び方から真剣勝負ってわけだ」
「はい。実が硬すぎても、柔らかすぎてもダメ。傷があるのも、未熟すぎるのも、全部アウトです」
「果実の選別はすでに酒造りの一部。そこからブレたら、すべてがブレる」
ノアが真剣な目つきで補足する。
「特に漬け込み酒は素材の味がそのまま出る。手を抜けば抜いた分だけ、結果に返ってくるんだ」
まるで職人みたいな口ぶりに、思わずミスティアが感心したように言った。
「……酒造りは計算ですね」
「“感性”でやると、狙った味は作れない。味の芯を設計し、素材と条件で構築する。酒は“理論の積層”だ」
ノアの言葉に、思わず息を呑んだ。
たしかに――これまでの伊吹酒造は、爆発と衝動の連続だった気がする。
(いや、まあ、それはそれで楽しかったけど……)
「さーて、それじゃあヘタ取りでも始めるか!」
わたしが竹籠をかかえて音頭をとると、クラリスがさっと白い手袋をつけた。
「まずは傷んでない梅を選別して、ヘタを取ってから洗浄。手際よくいきましょう」
「いつになくやる気を感じる!」
「クラリスさん梅、好きなんですか?」
「梅酒が好きなんじゃない?」
「いいから早く選別して!」
そんな掛け合いをしつつ、選別とヘタ取り作業がスタートした。
◆
午後、仕込み部屋。
洗って乾かした夕梅珠が光を吸って宝石のように輝いていた。
「じゃ、ここから漬け込みだな」
ノアがガラス瓶をひとつ抱え、わたしたちの前に置く。
「梅1キロに対して、氷砂糖600グラム。酒は1.8リットル。これが基本の黄金比だ」
「ええと、氷砂糖は……これ」
ミスティアが秤を調整しながら、透明な結晶を計量する。
ふつうの砂糖じゃなく、氷砂糖を使うのは理由があるという。
「氷砂糖はゆっくり溶けるので、梅から出るエキスと混ざる速度が穏やかになります。浸透圧のバランスも大事なんです」
「……なんか急に、錬金術みたいな話になってきた」
わたしがぽりぽりと頭を掻くと、ノアが首を横に振った。
「違う。これが公式だ」
「こだわるなー……」
「違いが出るからこそ、こだわるんだ」
ノアの言葉には、迷いがなかった。
「それに、今回はエルミナさんの大事な“記憶”の味を再現するって目的があるからな」
その言葉にわたしたちは少しだけ背筋を伸ばした。
失敗は許されない。
◆
「……でさ、酒って焼酎でいいの? それともブランデーの方がいいとかある?」
わたしが訊くと、エルミナが手帳をめくった。
「祖父はいつも、ホワイトリカー……つまり、無味無臭の焼酎を使ってたみたいです。果実の香りが引き立つように、あえてクセのない酒を選んだって書いてあります」
「ブランデーだと、コクが出て大人向けになるって聞いたこともあるわね」
クラリスがグラスを拭きながら補足する。
「焼酎は素材の味を活かし、ブランデーは香りを重ねる。方向性の違いだな。どっちが正解ってわけじゃない」
ノアは瓶を見つめながら頷いた。
「今は焼酎で漬けるしかないけど……ブランデーが手に入ったら、そっちでも一本作ってみたいところだ」
「だったら、今度の買い出しのときに探してくる?」
「よろしく頼む。できれば樽熟成してるやつ、香りに厚みがあるタイプが理想だ」
「そうすればブランデーで比較用を作れますしね」
「……科学の実験っぽくなってきたな。ついでにわたしのテンションも上がってきたわ」
「飲むテンションじゃなくて、造る方でお願いしますよ?」
「わかってるって、ミスティア。わたしだってもう立派な造り手よ」
瓢箪を腰にぶらさげながら、ふんぞり返ると、クラリスがため息をついた。
「瓢箪持ってる時点で、立派な飲み手にしか見えない」
「名誉ある称号ってことで受け取っておくわ」
◆
すべての梅と氷砂糖を層にして入れ、焼酎を注ぎ終えた瞬間――
瓶の中に、黄金の光が満ちていくように感じた。
香りはまだ閉じている。
でも、確かにそこにある。
これが……未来になる。
「……封じ込めるってより、未来を育ててる気分になってくる」
思わず出たわたしの言葉に、エルミナが小さく微笑んだ。
「きっと祖父も、同じ気持ちだったと思います」
そして――蓋がそっと締められた。




