森と命の美酒
──酒は、命を繋ぐ“祈り”になる。
森の小道を抜けると、空気の香りが変わった。
葉の奥に隠されるようにして広がるエルフの集落――樹の上に浮かぶように築かれた家々と、葉の編まれた橋、風に揺れる花布と風鈴の音。
静かで、優しい、森の呼吸に抱かれた世界。
「……帰ってきたぁー」
わたしはひと息ついて、空を仰いだ。
断酒修行の末に、異常な狩人たちと戦って、ようやく戻ってきた。
レイリナが静かに歩み寄ってくる。
あいかわらず、美しすぎて目が焼けそうだ。
「よく戻ってきた。すべての試練を越えて――お前たちは、己と向き合った」
「ま、多少、酔ったけどね」
「多少とは……」とクラリスが小声でツッコみ、ミスティアは遠い目で「むしろ全力で飲んでましたよね」とぼやく。
知らん、気にすんな。
レイリナはふっと口元を緩めてから、細長い瓶を取り出した。
澄んだ緑のガラスの中、ほのかに光を放つ液体が揺れている。
「これは……」
「森彩の涙。祝祭にのみ許された、精霊の清酒だ。エルフの長き守り人が受け継いできた、自然の恩寵の結晶」
それはただの酒ではなかった。
森の命を酌み取り、花蜜、果実、樹皮、清水、月の露。
すべてを調和させ、数十年もの時をかけて自然に熟成させた奇跡。
――命が宿る酒。
「これを飲む資格があるのは、己と向き合い、欲を制し、命を守る意志を持った者だけだ」
レイリナの言葉に、わたしたちは正座してしまった。自然と、背筋が伸びる。
◆
そしてその夜――
森に灯りがともった。
木の間に吊るされた花灯籠が、赤や橙の柔らかな光を放つ。
風に揺れた花布がひらひらと舞い、空気の中に蜜と草木の匂いが漂っている。
小さな焚き火がいくつも焚かれ、その火を囲んで、エルフたちが葉笛を吹き、太鼓を奏でていた。
「これ……幻想的すぎない……?」
「なんだか、夢の中みたい……」
「こんな夜があるんですね……」
わたしたちは森の広場の中央に用意された円卓へ案内された。
そこには、見たこともない料理がずらりと並んでいる。
焼き樹皮パイは、外はパリッと香ばしく、中は茸と花根の甘みがとろけるパイ。
月光茸の蒸し焼きは、ほんのり光る茸を蒸し、木の葉で包んだ繊細な香り。
花蜜酒のゼリーは、夜咲く花から採った蜜を冷やし固めた、宝石のような甘味。
森の果実と木の実のチーズはエルフ式発酵で作られた植物性チーズと熟した木の実。
「ぜ……全部、ベジタブルなのに、超おいしそうなんですけど……」
「いただきます!」
誰よりも早くクラリスが手を伸ばし、ミスティアが笑いながらナイフを入れる。
わたしももちろん手を伸ばす。
どれも優しい味だ。
それでいて、素材の輪郭が鮮やかで、舌の上で響くようにうまい。
「……これ、胃袋が浄化されてく気がする」
「そうですね……体が内側から澄んでいくような……」
それから音楽が高まり、エルフたちが舞台に立つ。
淡い葉衣をまとった舞手たちが、月の光に照らされながら舞い踊る。
風の音、葉のささやき、焚き火のゆらぎ、精霊の歌が、夜の帳に溶けていく。
「伊吹、あれ……」
クラリスが指差した先、焚き火の中央に――レイリナがいた。
静かに瓶を傾ける。
注がれた酒が光をまとい、星の雫のように揺れる。
「……“森彩の涙”の儀式、始まるみたいですね」
その瞬間、わたしの喉が鳴った。
「……飲みてぇ……」
レイリナが歩み寄り、わたしたちの盃に注ぐ。
琥珀ではない。限りなく透明に近い、けれどほんのり金色を帯びた液体。
香りが、すでにおいしい。
森の匂い。熟した果実の気配。花の蜜の甘さと、静かな火のぬくもり。
盃を揺らすと、表面に波紋が広がり、それだけで世界が震えたような錯覚に陥る。
「――乾杯」
口をつけた瞬間、世界が変わった。
熱くもない、冷たくもない。
液体が喉を通ると、全身に柔らかな光が満ちていく。
味は言葉じゃ語れない。
旨み、甘み、酸味、苦味、渋味――そのすべてが優しく包み込まれ、ひとつの“命”として昇華されていた。
それは、酒というより――“祈り”だった。
「……うっわ、なにこれ、わたし……自分が、きれいになってく気がする……」
「わかります……こんなお酒、初めて……」
「飲むたびに、自分が整えられていく……」
静寂の中に、焚き火が揺れる。
わたしはただ、涙がこぼれないように目を閉じた。
この酒は生きてる。
命を繋ぎ、心を救い、世界と一緒に酔わせてくれる。
そんな酒が、あったんだ――。
宴は深く、静かに、けれど確かに熱を帯びて続いていった。
夜空に星が満ち、精霊たちが踊り、わたしたちは――酒の本当の“意味”を、少しだけ知れた気がした。




