酒断ち三人組
――朝4時。
まだ陽も昇りきらないうちから、鳥の声と川のせせらぎに起こされる日々がもう何日続いているのか。エルフの森に来てから、わたしの体内時計は完全に壊れた。
「……寒っ、寒っ……うぅ、お酒の力が欲しい……」
毛皮でもなく、火の魔石でもなく、“呼吸で身体を温める”というよくわからんエルフ式暖房法に震えながら、わたしは湖畔の岩の上で胡坐をかく。
静寂。鳥のさえずり。吐息に白い靄。
「寒くて死ぬって、これ修行の範疇超えてない……?」
「伊吹さん、喋らない。“静寂の瞑想”です」
ぴしっとミスティアに注意される。
彼女の姿勢は完璧だった。
背筋を伸ばし、目を閉じ、呼吸を整えている。
まるで森と一体化してるような……いや、たぶん凍えてるだけだ。
「無理だわこれ……騎士団の早朝訓練のほうがまだ温かかった」
クラリスも半眼のままぶつぶつ呟いている。
時折鼻をすすっているのは、寒さか涙か。
わたしは瞑想を断念し、膝を抱えて空を見上げた。
天蓋のように広がる森の木々が、淡い朝焼けの光に揺れている。
その隙間から、小さな鳥がふわりと飛び立っていく。
……そんな絵面を見てると、一瞬くらくらする。
たぶん、低血糖。
◆
朝食は“空気の味がするスープ”。
いや、ほんとに。野草とキノコの薄〜いだしに塩ひとつまみ。しかも量がお椀半分。
クラリスがスプーンを持ったまま絶望的な目でわたしを見る。
「……これをあと何日……?」
「昨日も同じこと言ってたよね。わたしはそろそろ夢にベーコンが出てきそうだよ」
「わたしはマリネされたエルフ茸が……揚げ物として出てきました」
ミスティアがぼそっと呟く。あんたもか。
ちなみに、酒はもちろん禁止。
飲酒どころか「“酒”の字がつく植物にも近づくな」と言われている。
わたしの腰にぶら下がる《酔楽の酒葬》にも封符が貼られ、今やただの瓢箪と化していた。
「……ていうか、なんで私たちまで修行してんの?」
スプーンを置いて、クラリスが真顔で聞いてくる。
「わたしは断酒したいって言ったけど、別にふたりは巻き込まれる必要なかったんじゃ……」
「今さら言います?」
ミスティアが静かに睨んでくる。
「“一緒に来てくれたら嬉しい”って”酔いどれ旅団の仲間”だって、伊吹さんが言ったから……」
「ああ〜、あれね。“そばにいてくれたら頑張れる気がする〜”ってやつ」
クラリスも半笑い。
「ぐぬぬ……ごめんなさい」
わたしは素直に頭を下げた。
……しかし、あれは本音だった。
いくら“飲まなきゃ死ぬ”ってわけじゃないとはいえ、酒のない世界は本当に、乾いてる。
どんなに森が潤っていても、心が干上がっていくような……そんな感じだった。
◆
昼になると、“感覚浄化の訓練”。
木の葉に触れ、音に耳を澄まし、空気の流れを読む。
身体から酒精を追い出し、精神を透明にするための儀式的な運動らしい。
わたしたちはレイリナの指導で、森の中を歩きながらそれを実践していた。
「伊吹。木の幹に手をあて、呼吸を通わせろ」
「……通わせた先に、酒精がいたら嬉しいなあ」
「酒精を追い出すための訓練なのだが」
無慈悲。
そんな修行中の午後。
森がざわめいた。
最初に気づいたのは、ミスティアだった。
「……あれ、動物の気配が変です」
「確かに。さっきから、やけに駆け足の音が……」
クラリスの声をさえぎるように、リスや兎のような小動物たち森の入り口付近から走り抜けてきた。
フクロウまで日中に飛び立っていく。
「……なんだこりゃ」
鳥の鳴き声が、一瞬だけ止まった。
森の奥――風が吹かないはずの方向から、枝がざわり、と揺れた。
動物たちはひたすらに“逃げていた”。
何かから。誰かから。
わたしたちは、思わず立ち止まる。
そのとき、森の奥から、エルフの哨戒兵が飛び出してきた。
「レイリナ様ッ! 南の境界線で、不穏な人影を確認!」
「……人間か?」
「はい。姿かたち、装備――間違いなく外部の狩人。しかも、複数人です」
レイリナの眉がわずかに動いた。
「……伊吹。私は森のものを守る最後の砦だ。安易にここを離れるわけにはいかない――」
「はいはいっ! 調査ってことで森の修行抜けていいってことでしょ!? 行く行く!もう行く!」
わたしはレイリナの言葉を遮って真っ先に手を挙げた。
「早くしてくれないと、お酒欲しさに動物と間違えてリス噛むかもしれないから!!」
「……危機感の方向がズレてる気がしますが」
ミスティアが冷静にツッコむ。
「まあ、修行の休憩にはなるかな……」
クラリスが肩を回す。
「ありがとう。この件が無事片付いたら褒美として修業を完遂したことにしよう。特別にな」
こうしてわたしたちは、修行を“中断”という名目で抜け出し、森の異変の調査に向かうことになった。
なにか、嫌な予感がしていた。
でも、あのときのわたしはまだ知らなかった。
この森の奥で、どんな“狂った酔い”が待っているのかを――。




