再会の森で
森に入った瞬間、空気の質が変わった。
湿り気を帯びた緑の香りが鼻をくすぐる。
街の酒場に漂う煙草と麦芽の香りとはまるで違う、命の匂いだ。
鳥のさえずり、水のせせらぎ、葉擦れの音。
すべてが耳を澄ませば聞こえるような静けさに満ちている。
「うーわ……なんかもう、飲めない気がしてきた……」
そうぼやきながら、わたしは頬に手を当てる。
通算五日目の断酒。
すでに“禁断症状”というやつが出てきているのかもしれない。
口の中がさみしい。胃がそわそわする。
手が酒器の形を求めてうずうずしている。
「伊吹さん、よだれ、よだれ……」
ミスティアが冷静にタオルを差し出してきた。
わたしはぺろっと舌を引っ込めて受け取る。
「それにしても、エルフの森ってやっぱり幻想的だね」
クラリスが感嘆するようにあたりを見回している。
彼女の視線の先には、淡い陽光に包まれた小道と、天蓋のように枝を広げる巨木たち。
その木々の間には小さなつる草の吊り橋や、彫刻のような風鈴、透明な布がゆるやかに揺れていた。
そんな夢みたいな風景の中、ひとりの女が立っていた。
葉を編み込んだ軽装。腰まで届く淡い緑金色の髪。切れ長の瞳は冷たく、何より――信じられないほど整った顔立ち。
人間の言葉で表現するなら、“完璧”だ。
「……再会の場で、また口説くつもりか?」
「え、バレてた?」
わたしは反射的に肩をすくめる。
「伊吹さん、初対面のときもやりましたよね、それ」
ミスティアのつっこみはやや冷たい。
「懲りないね。伊吹も……」とクラリスが溜め息をつく。
エルフの女は苦笑を浮かべた。
「伊吹。久しいな。変わらぬ口の軽さだが、目は少し、真剣みを帯びている」
「レイリナ……また会えてうれしいよ」
それは本心だった。
ただの美人ってだけじゃない。
彼女は強く、冷静で、でも芯に何か温かいものを持っている。
わたしはそれを、初対面のときから感じていた。
「酒を断つために、修行に来たと聞いた」
「どこからその情報を」
「私たちが先に伝えておいたの」
「事前準備は完璧です」
「二人の息の合ったコンビネーションがうれしいよ!」
断酒さえしなければレイリナとイチャイチャできると思ったのに!
「そういうわけだ。というわけでまずはこれを飲んでもらう」
そう言って差し出だされたのは琥珀色の液体。
「エルフの森の酒”蒸し摘みの蜂蜜酒”だ」
「お、お酒! 飲んでいいの!!」
「落ち着きなさい伊吹」
「ステイです伊吹さん」
「犬扱いしないでほしいんだけど」
「しっぽがあったらブンブンと振っていそうでしたから」
「犬のように興奮しているしね」
「ひどい言われようだ。わたしだって一応女の子だからね!」
「見た目はだけは女の子ですからね」
「中身はおっさんだけど」
「お前ら漫才はそこまでにして早く飲んでくれ」
レイリナが呆れてツッコんでくる。
「でも、レイリナ。わたし断酒しにきたんだよ。蜂蜜酒なんて飲んでいいの?」
「最期の思い出にはちょうどいいだろ」
目を伏して呟いてくる
「それってどういう意味!?」
レイリナがフッと笑う。
「冗談だ。最初にお酒を飲むことで修行の厳しさが増す効果がある」
「飲まずに修行してもいいってこと?」
「お前が差し出された酒を飲まないような奴ならな」
「それを言われて飲まないわたしではない」
ここで飲まなかったら酔いどれの名が泣く。
わたしは手渡された蒸し摘みの蜂蜜酒を一口飲む。
「なにこれ、甘っ! 香りがいい! 美しい! 何より五日ぶりのお酒おいしっ!!」
すっきりとした甘さが口内に広がり、蜂蜜の芳醇な香りが豊かで、花のアロマのようだ。
「ほら、二人も飲んで」
クラリスとミスティアにも蜂蜜酒を差し出す。
「私たちは別の修業はしなわよ」
「伊吹さんほど酒クズではありませんから」
「いや、二人にも修行に参加してもらう。伊吹ほどではないにしてもお前たちも酒の匂いが染みついている」
「ショックすぎる」
「私たちは内側も外側も女の子ですよ」
二人が目に見えて落ち込んでいく。
「酔いどれ旅団なんて名乗っておいて、エルフの森からタダで帰れると思うな」
二人はうなだれながらも一口ずつ蜂蜜酒を飲む。
「なにこれおいしい! 辛いお酒より好きかも!」
クラリスの表情が華やぐ。
「炭酸を入れてもいいかもしれませんね」
ミスティアも研究者のような目を輝かせている。
「なんだかんだ言いながら、この二人もお前に負けず劣らずの酒好きだな」
「酔いどれ旅団の仲間ですから」
レイリナはくるりと背を向けた。
「三人とも飲んだな。ついてこい。森の奥にお前たちを導く場がある」
◆
レイリナの案内で、わたしたちは森の奥にあるエルフの集落へと向かった。
その集落は“自然と共にある”という言葉の具現だった。
木の根をくり抜いた住居、藤の蔓で編まれた橋、雨水をためて飲料にする聖杯。
どれもが美しく、実用的で、無駄がなかった。
「こりゃあ……確かに“節制”の空気って感じ」
わたしがそう漏らすと、レイリナが振り返る。
「我らが美しさを保つ秘訣を知っているか?」
「……もしかして、酒抜き?」
「正確には“摂生”。すべてを必要以上に摂らぬことだ。肉も、魚も、強い調味も、そして――酒も」
「ひえぇ……」
「その顔は覚悟の顔ではないな、伊吹」
レイリナは一歩前に進み、わたしの額に指をあてる。
「お前の体に染み込んだ“酒気”……抜くのは簡単ではない。心の底から、変わりたいと願わねば」
――そのときだった。
レイリナの指先から、ひんやりとした気配がわたしの額を伝い、全身に拡がった。
「っ……!」
頭の芯が冴える。胃の奥にへばりついていた“酒欲”が、一瞬だけ霧散するような感覚。
「……なに、今の?」
「“断酒封”だ。儀式のひとつ。だが、お前の中の酒欲は深い。修行なしでは封じきれない」
そう言って、レイリナは真顔で続ける。
「覚悟はいいか?」
「……まあ、来ちまったからには、やるよ」
「よろしい。では――“断酒修行”に入る」
◆
修行内容は想像以上にハードだった。
まず朝は日の出とともに森の湖での瞑想。
冷たい水に足を浸し、呼吸を整え、酒への欲求を静める。
次に菜食中心の食事。
塩分はほとんどなく、使われるのはハーブや香草のみ。
肉も魚もなし。炭水化物も最低限。
前、食べたエルフ料理に似ているが、圧倒的に質素だ。
午後は“静寂の時間”。
誰とも口をきかず、木々の揺れや風の流れ、葉の囁きに耳を傾ける。
精神の澄みを取り戻すための時間だという。
瞑想みたいなものだ。
「……これ、拷問じゃない……?」
初日の夜、寝床に倒れ込んだわたしは呻いた。
「修行って聞いてたけど、ここまでとは……」
クラリスが布団をかぶったままぼやく。
「私たち、なんで巻き込まれてるんでしたっけ」
「伊吹さんと一緒にいるから“酒クズ”認定されました……」
ミスティアが淡々と答えた。
「ちょっと、言い方ぁ……」
けれど――どこか清々しい気もするのだった。
酒を抜き、余計なものを食べず、自然の音に身を委ねて生きる。
心が透き通っていく気がした。
(……でもやっぱり、酒飲みてぇ……)
酒は毒でもある。
でも、わたしにとっては“生きる熱”でもある。
そんな矛盾を抱えながら――修行の日々は、始まった。




