断酒、始めました
――わたしは、今日から酒をやめる。
言いながら、舌の奥にうずくまる“渇き”がぴくりと反応した。
まったく、これほど自分の身体に裏切られる瞬間も珍しい。
というわけで、わたしは今、テーブルの上で頭を抱えている。
「……伊吹さん、ここ、朝食の場ですからね」
静かな諫めの声。涼やかで理知的。そのわりにほんのりとした泡が香る。
「分かってる……けど……」
顔を上げると、目の前にはグランがお土産に持たせてくれた特製の“グツグツ煮込み野菜スープ”と香ばしく焼かれたドワーフ式パンケーキ。
彩りも栄養も抜群な朝ごはん――のはずなのに、なんだろう、この物足りなさ。
そう、たとえるなら、“酒がない焼き鳥”とか、“枝豆に塩を振らない”とか、“ハイボールを忘れた焼肉”とか――
「って、全部酒じゃんか……!」
「さっきからずっとぶつぶつ言ってるけど、三日目だよね? 断酒」
向かいに座るクラリスが、腕を組んで苦笑を浮かべた。
「うん、そう。三日目。もう、三日目……。つまり、あと四日。七日分の誓いまで、折り返しってこと」
「だったら我慢しましょう。すでに二回くらい、寝言で“ビール……”って言ってましたし」
「ミスティア、そこは聞き流してくれていいじゃんよお……」
わたしは頭を抱えながら、テーブルに突っ伏す。
きっかけは――あの日だ。
火霊の雫を飲みすぎて、例によって例のごとく、盛大な二日酔いをやらかした。
グランに看病され、ドワーフたちに呆れられ、何より……三日目のクラリスとミスティアの“お母さんみたいな目”。
あの目はね、ずるい。罪悪感が濃縮されて、胃にずしんとくる。
だから決意したのだ。
断酒、七日間チャレンジ。
……だけど。
「なんでこんなにつらいの……?」
「伊吹さん、お酒を日常の一部にしすぎたんですよ。水みたいに」
「むしろ水より飲んでたかもしれない」
「それ、自慢になりませんから」
「ほんとに……身体から泡が出そうだよ……泡沫魔法とかじゃなくて、純粋に……禁断症状ってやつ……」
苦笑いするクラリスとミスティアの前で、わたしは完全に脱力していた。
◆
……その日の午後。
わたしは、広場のベンチに倒れ込んでいた。
空は快晴。空気はすがすがしい。
子どもたちが駆け回ってるし、酒場の入り口からはいい匂いもする。
……だめだ。
ああもう、あの匂い。麦芽とホップと柑橘のブレンド。誰だよ、昼間っからIPA開けてるやつ。
「伊吹さん、大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは、ミスティア。
杖を携え、今日もローブの裾が風にたなびいている。
その後ろからクラリスも歩いてきた。
「お散歩コースにしては、少し消耗しすぎじゃない?」
「いや、これは……アレだよ。誘惑との闘いってやつ。すれ違う人みんな酒臭く見えるんだよね……」
「うーん、重症ですね」
ミスティアが困ったように眉を下げた。
「そこで、わたしたち、ちょっと考えたんです」
「ほう」
「エルフの村でやってる修行があるらしいの。精神と肉体を律して、雑念を捨てる、みたいな」
「……なんでそれをわたしに?」
「いや、雑念の塊だからでしょ?」
クラリスが即答した。
「伊吹さんって、欲に忠実じゃないですか。楽しいこと、面白いこと、酒……」
「否定できない自分が悔しい……!」
「でも、そういう伊吹さんだからこそ、ちゃんと自分を律する修行って、意味あると思うんです」
「……それって、つまり、“エルフのとこ行こうぜ”って話?」
二人は、揃って頷いた。
「うわぁ……エルフ、またかぁ……」
昔、一度だけ会ったことがある。
あまりの美人ぶりに反射的にナンパしたら、「精神の雑さが顔に出ている」って言われたっけ。
でも、たしかに今の自分には、何か“芯”みたいなものが必要なのかもしれない。
「……よし、行くかぁ」
ついに、決意。
◆
旅路は驚くほど静かだった。
泡鳴区から森の国境まで、徒歩で二日。
ミスティアの泡魔法で足場を整えながら、クラリスが先導してくれた。
道中、酒場の看板や屋台の匂いを避けて通る。
「……このルート、前なら絶対スルーしてたなぁ。飲み屋の煙に吸い寄せられるように突入してたのに」
「進歩したじゃない」
「その代わり、常に頭の中が“酒の妄想”でいっぱいだよ……」
でも、なんだか不思議だった。
酒のない旅路は、少しだけ世界が違って見える。
木々の緑も、風の匂いも、耳を澄ませば聴こえる鳥の声も。
全部がほんのすこし濃く、そして鮮やかだった。
これが、素面の世界――ってやつなのかも。




