炎が去ったあとに
蒸気と熱気が、わたしの頬をなぞる。
爆ぜた火花が天を舞い、焼け焦げた岩肌に落ちては、じゅう、と小さな音を立てて消えていった。
その中心にいた男――蒸留騎が地に背中をつけ天を仰いでいる。
「……やはり、愉快だな。お前は」
かすれた声に、わたしは金棒《酔鬼ノ号哭》を肩に乗せたまま、短く息を吐く。
「こっちは全身すすだらけなんだけど?」
《烈酒解放・アンバーコアフォーム》の余韻がまだ身体に残っている。
芯に火が灯ってるみたいに、熱い。痛いくらいに、生きてる。
だから――わかる。
この男も、もう限界だ。
「……火はすべてを削ぎ落とす。純粋な核だけが、残る」
蒸留騎の全身を包む鎧に、ぴしりと音が走った。
その音を皮切りに、鎧の表面が――剥がれ落ちていく。
まるで焦げついたキャラメルを砕くように、薄い板がぽろぽろと剥離していき、やがて。
「……あ」
その中から現れたのは、まだ初老の男だった。
褐色の肌に、短く刈った黒髪。目元には、酒精の熱に焼かれたような焦げ跡が残っていた。
鎧が完全に砕け、地に崩れ落ちたとき、その男は静かに目を伏せた。
「……人間、だったの?」
「……かつてはな。名は、イヴァン。蒸留士だった頃の名だ」
「……もしかして、グランの師匠だったとか?」
その名を口にした瞬間、彼の目が、わずかに動いた。
わたしの脳裏に、あの髭面の親父の顔が浮かぶ。
火霊の雫を守ってた男、酒を心から愛してる職人。
あの人の言葉が、ふと蘇る。
『火は厄介だが、愛おしい。だがな、焦がしたって、蒸発させたって、旨味ってのは残るんだ。人間も、酒もよ』
イヴァンはうっすらと笑った。寂しげに、遠くを見るように。
「……もっと強い火を造りたかった。限界を、超えたかった」
「だからって、魔王軍なんかと手を組んだの?」
「違う。あれは――ただの副産物だ。俺は“火”に魅せられたんだよ。人を焼き、魂を溶かす、究極の火に」
火を追い求めるあまり、人を、街を、焼いた男。
だけど、その目には――どこか哀しさがにじんでいた。
「ねぇ、イヴァン」
「……なんだ」
「わたしはさ、強い酒が好きだけど……いちばん好きなのは、“残った味”なんだよ」
「残った味……?」
「焦がして、蒸発させて、削ぎ落として、それでも消えない――そういう味。たとえばさ、失敗した酒の中に、妙にクセになる雑味があったりするでしょ?」
イヴァンは、黙ってうなずく。
わたしは胸を張って、言ってやった。
「そういうのを“捨てる”んじゃなく、“活かす”のが、酒造りってもんでしょ」
「酒を造ったこともない小娘が……まあでも、そうだったな」
イヴァンの身体が、光に包まれ始める。黒
い蒸気が、彼の足元から立ち昇る。
魔王軍の――消滅現象だ。
「――俺は、火に溺れた。だが、お前は……ちゃんと、火を呑み込んだんだな」
最後に残った笑みは満足した職人のそれだった。
そして、彼は静かに蒸発するようにして消えた。
◆
ひとりの男が現れる。
焙煎香のような匂いと共に、あの親父――グランが歩いてきた。
「……終わったようだな」
「グラン。ちょっと燃えすぎたかも」
「ああ、道中の山肌が焦げまくってて、心臓に悪かった」
グランの手には、小さな瓶が握られていた。
中に入っていたのは――黄金色の、残り一滴の《火霊の雫》。
「こいつは、あいつの“遺言”だ。託された気がしてな」
無言でグランが瓶を差し出す。
わたしはそれを受け取り、蓋を開ける。
途端に広がる――芳ばしく、ほのかに甘い、焦がし琥珀の香り。
どこか、切ない。
けれど、わたしは笑って言った。
「……乾杯、しよう」
「――ああ」
グランの手元に、錫のぐい呑みが二つ現れる。
少量だけ、雫を注ぎ、二人で杯を合わせた。
かちん。
小さな音がまだ熱を帯びた空気に溶けていった。
「……お前の熱さで、こっちまで酔っぱらいそうだ」
この世界には、まだ知らない酒がある。
まだ見ぬ火が、まだ見ぬ香りが、まだ見ぬ――出会いが。
その全部を、わたしは呑み干したい。
酔うためじゃない。生きるために。
――さあ、次の一杯を探しに行こうか。




