琥珀の呼び声
――焼けた空気の中で、香りだけが生きていた。
砦の天井は吹き飛び、空からは灰と蒸気が降ってくる。
熱の波が肌を刺し、息を吸うたびに喉の奥が焦げつく。
それでも、わたしの鼻はその中から一つの匂いを拾っていた。
琥珀色の甘い煙。
焦げた木樽の奥に残っていた、あの《火霊の雫》の香り。
「……あった」
瓦礫の下から、割れた樽の一片を拾い上げた。
指先に残るのは乾いた樽木の感触と、ほのかに滲む琥珀の染み。
もう液体なんて一滴も残っちゃいない。
でも、香りだけは――まだ生きていた。
「伊吹さん……それは……!」
焦げた泡の向こうで、ミスティアが息をのむ。
クラリスも傷だらけの手で剣を杖代わりに立っている。
ふたりともボロボロだ。
それでも、目の炎は消えていない。
「二人とも援護よろしく。ここからは……嗅覚勝負だ」
「了解ッ!」
「わかりました」
二人はわたしの前に立つように駆け出した。
笑って、瓢箪《酔楽の酒葬》の蓋を開いた。
熱気が、流れ込む。
砦中に漂う酒精の蒸気、火霊の残香、燃え残りの煙。
すべてをまとめて吸い込み――目を閉じた。
頭の中に浮かぶのは、グラン=バルムの顔。
あの豪快な笑い声と、樽を撫でながら語っていた言葉。
“酒ってのはな、火みてぇなもんだ。燃やすだけじゃ灰になる。
けど、うまく焙りゃ、魂が香る。”
――そうだ。
酒は焼かれて初めて“香る”んだ。
「……あんたの火、少し借りるぜ」
静かに息を吐き、瓢箪を傾けた。
飲んだことのない酒が、舌に触れる。
その瞬間、体の奥で何かが弾けた。
熱でも痛みでもない――“鼓動”だ。
火霊の雫の香りが、体中を駆け巡っていく。
赤、橙、そして琥珀。
それは爆発でも魔法でもない。
わたしの中で“再現された酒”が、呼吸とともに共鳴していく。
「《烈酒解放――アンバーコアフォーム》」
名を呼んだ瞬間、視界が琥珀色に染まった。
火が寄り、煙が流れ、世界の色が反転する。
蒸留騎がわずかに身を引いた。
肌が熱を呑み込んでいる。
焦げた風が吹くたびに、それが力へと変わる。
火がもう痛くない。
「……馬鹿な。炎を、吸収している……?」
蒸留騎の声が震える。
その胸の蒸留器が、共鳴するように唸った。
「当たり前でしょ。火霊の雫は“祝火”だ。
祝うための火を、怖がる必要なんてないじゃん」
金棒を構えた。
全身を覆う琥珀の膜が、淡く輝いている。
体の奥で酒が燃える音がする。
アンバーコア――それは、わたしの心臓みたいに熱く脈打っていた。
「さあ、続きをやろうか。蒸留の亡霊さん」
クラリスとミスティアの間を駆けて蒸留騎に突っ込む。
「……ならば見せてみろ、人間。
“雑味”が俺の火を越えられるというなら!」
蒸留騎の剣が、再び紅蓮の焔を纏う。
今度はさっきまでの炎じゃない。より純粋で、より凶暴な火だ。
それでも、怖くなかった。
だって、火は――飲めば旨い。
「《烈式・蒸炎剣ッ!!》」
「《酒技・琥珀乱撃ッ!!》」
ぶつかる。
炎と酒精が交差する。
爆音と爆光の中で、琥珀の残光が空を焦がした。
金棒の軌道が火を裂き、煙が渦を描く。
わたしの身体を包む琥珀の光が炎を吸い、反撃の力に変えていく。
「どうした蒸留騎! “純度”が足りねぇんじゃないのかッ!」
「貴様の熱は……狂気にすぎん!!」
「いいや、これが“おいしさ”だよ!!」
金棒と剣がぶつかるたび、砦が軋んだ。
火花が散り、爆風が吹き荒れ、それでもわたしは前へ出た。
蒸留騎が繰り出す斬撃の軌跡を、アンバーコアが受け止める。
炎が吸い込まれ、熱が力になる。
それは、燃料を奪い合う戦いだった。
「……火を奪われる感覚、初めてだろ?」
「貴様ァァァァッ!!」
蒸留騎が叫ぶ。
わたしは金棒を振りかぶり、踏み込み――
「これが、あたしの――火霊の雫だッ!!」
――衝突。
閃光が世界を焼いた。
灰と煙と炎が、ひとつの色に混じる。
琥珀の光が、ゆっくりと砦を包み込んでいく。
その中心で、わたしと蒸留騎が向かい合っていた。
互いに傷つき、立っているのがやっと。
でも、どちらも笑っていた。
――この熱は、まだ終わらない。
火は消えるまでが宴だ。




