焦げた風、燃える丘
――香りの余韻は、まだ残っていた。
葡萄姫を倒してから数日。
泡鳴区の空気はようやく落ち着きを取り戻していた。
祭りの片付けが終わり、通りには酒瓶と笑い声が溢れている。
わたしたちは久々の“帰還”を噛みしめていた。
「はぁ~……帰ってきた、って感じだなぁ」
リビングのソファに身体を投げ出す。
木の床が心地よくきしむ。
クラリスは窓辺で剣を磨き、ミスティアは台所で湯を沸かしている。
「伊吹さん、今日は酔わないんですか?」
「うん、たまにはシラフで余韻を味わいたいの。ほら、戦い終わったあとって、変に静かでしょ」
「ふふ、それはわかります。勝利のあとって……ちょっと寂しいですものね」
ミスティアがそう言って微笑んだとき――玄関の扉が、どん、と叩かれた。
「おーい、伊吹! いるか!」
聞き覚えのある太い声だった。
「……この声、まさか」
扉を開けた瞬間、鼻をつんざくような強烈なウイスキーの香りが流れ込んできた。
そこに立っていたのは、胸まで伸びた赤い髭を三つ編みにした、岩のような男。
「グラン=バルム!!」
「久しいなぁ、酔いどれ娘!!」
どん、と肩を叩かれ、思わず一歩後ずさる。
相も変わらず、筋骨隆々で、腰には巨大なハンマーが下がっている。
酒造りのためのハンマーらしいが、下手すりゃ人間も潰せそうな代物だ。
「なんだよおっさん、生きてたのか」
「失敬な! 俺は酒と一緒に熟成してただけだ!」
大笑いしながら、グランはわたしの家にずかずかと上がり込んできた。
「クラリス! ミスティア! 久しぶりだな!」
「お久しぶりです、グランさん。相変わらず……にぎやかですね」
「炭酸のような声がはじけていますね」
「二人とも元気で結構じゃねぇか! だがな――」
次の瞬間、グランの笑顔が消えた。
「……“火霊の雫”が、盗まれた」
その一言で、部屋の空気が変わった。
◆
「“火霊の雫”って、あの琥珀色の蒸留酒だったよね?」
「ああ。火山の息吹で熟成させた炎の酒で特別な時にしか飲めねぇんだ。
俺はあれを、お前に飲ませるって決めてたんだ。約束しただろう?」
「……覚えてるよ。あれは、絶対に飲ませてくれるって」
グランはうなずく。
だが、その瞳の奥には怒りと悔しさが混じっていた。
「俺の工房にあった樽が焼け落ちた。残ったのは黒焦げの床と……この痕跡だ」
グランが差し出したのは、焦げついた鉄片だった。
表面に刻まれた紋章は――蒸留器を象った十字と、炎の印。
それを見た瞬間、クラリスが息を呑んだ。
「この刻印……“蒸留騎”のものだ」
「知ってんのか?」
「八酔将のひとり。炎と蒸留を司る鎧の騎士。
アルコールそのものを燃料に、剣を揮う男――と、古い記録にあったきがする」
「……魔王軍のやつが酒を盗むなんて」
わたしは拳を握りしめた。
それは怒りでもあり、侮辱への反応でもあった。
「……酒を道具にする奴は、許せない」
「伊吹さん……」
「酒で相手を倒す自分はいいんだ?」
クラリスの冷ややかな視線が突き刺さる
「バッカス様が許してくれるからいい!!」
だって酔楽の酒葬はバッカス様がくれたから。
「それでグラン。そいつはどこにいるの?」
グランの瞳が鈍い火を宿す。
「北西の山岳地帯、“燃える丘”だ。昔は蒸留の聖地だった。
だが今は奴が砦を築いてやがる。
火山の熱を利用して“永遠に燃える酒”を造ってるらしい」
「永遠に燃える、ねぇ……上等じゃん」
勢いよく立ち上がった。
「行こう。わたしらがそいつの“炎”を呑み干してやる! そして火霊の雫を取り戻してくる!!」
「さすがに炎を飲むのはちょっと」
「炭酸で割れば行けるかもしれません」




