グラスの向こう側
――鮮やかな紅が大地を焼いた。
飛沫のように飛び散った赤ワインが地面に着弾した瞬間、そこから爆ぜるように炎が立ち上がる。
「っ、く……!」
クラリスが剣で衝撃を受け止めるも、炎熱の波に押されて後方へ弾かれる。
焦げた匂いが辺りに広がった。
「クラリスさん!」
「大丈夫……まだ、動ける」
クラリスは息を荒げながら立ち上がるが、鎧の表面が部分的に黒く煤けている。
葡萄姫。
その手には、紅と白、二本のワイングラスが浮かぶ。くるくると指先で回転させながら、陶酔したような笑みを浮かべた。
「赤は情熱、白は静謐。そして――混ざり合えば、どうなると思う?」
「まさか……!」
ミスティアが息を呑む。葡萄姫の足元に、赤と白の魔力が旋回しながら収束していく。
グラスがぶつかる。
カン、と乾いた音が響いた瞬間、紫がかった薔薇色の光が、彼女の全身を包み込んだ。
「《ロゼ変奏》――美の頂きを、味わってもらうわ」
葡萄姫の姿が変わる。
ワインの液面のように滑らかなローブに身を包み、赤でも白でもない艶やかな光を放つその姿はまさに「美」の象徴だった。
そして――次の瞬間。
「はっ!」
彼女の指先から放たれたのは、紅白が入り混じる螺旋状の光弾。
《芳香乱舞》
――その名の通り、香り立つ光が風に乗って迫る。
「避けろ!」
反射的に叫ぶ。
だが、ワイン香を帯びたその魔弾は着弾と同時に炸裂し、甘く、苦く、酸っぱく、渋く――さまざまな「感覚」で脳を包み込む。
思考が絡まり、感覚が混濁する。
「くそっ、また香りの幻覚か……!」
「いいえ……これは違います!」
ミスティアが叫ぶ。
彼女の水色の瞳が、わずかに震えていた。
「これは、香りの洪水……五感そのものを支配する――!」
ワインの香りを通じて、敵の思考と行動そのものを操作する。
葡萄姫が赤と白の魔法を融合させたことで生まれた、新たな支配。
「伊吹さん、近づけません……! 攻撃も、回復も、彼女のリズムに吸い込まれて……!」
「わかってる! けど、やるしかねえ!」
瓢箪を振るい、酒気を圧縮する。
「《酒技・火泡爆破》!」
金棒《酔鬼ノ号哭》に宿した泡を爆発させ、空中へ飛び込む。だが――
「甘いわ」
葡萄姫の左手が、白く光る。
白ワイン魔法《芳醇結界》が展開され、わたしの一撃を寸前で弾いた。
その瞬間、身体にロゼの香気がまとわりつく。
「……!?」
視界がにじむ。
わたしの中に――記憶のような、夢のような映像がよぎる。
――優しく微笑む母の姿。
――金色の麦畑を駆ける誰かの背中。
――花束を抱える自分――?
「くそっ、まどわされんな……!」
自らの頬を叩いて意識を戻す。
だが、ほんのわずかな硬直。
それが、命取りだった。
「じゃあ、いただくわね――」
葡萄姫が距離を詰め、グラスを振るう。
《渋化》――対象の武器にデバフを付与するワインの呪い。
「――ぐっ!」
金棒に紫色の粘液が絡みつき、重さと反応が鈍る。
攻撃が通らない。
白による防御と回復、赤による爆発と渋化、そしてロゼによる五感の支配。
すべてが滑らかに切り替わり、隙がない。
「ロゼ……最悪の完成形ってわけかよ……!」
「気づくのが遅かったわね、酒呑みの子。ワインは“飲み頃”を迎えた時が、もっとも危険なのよ」
葡萄姫の笑みは、ワイングラスの縁のように冷ややかだった。
「伊吹!」
クラリスが駆け寄ろうとするが、次弾の《芳香乱舞》が進路をふさぐ。
追い詰められていく。
だが――
胸の奥で、何かが、泡立っている。
赤と白の攻防の中で――
攻と守、攻と回、二つの極を何度も行き来した、その「行動の揺らぎ」がわたしの中に一つの流れを生み始めていた。
――ロゼとは、ただの融合じゃない。
――切り替えの“妙”にこそ、真価がある。
そのとき。
「……クラリス。合わせて」
「ええ。何度でも」
彼女が剣を握り直す。
金棒が、渋く光を帯びる。
「いくぞ――まだ、終わっちゃいねぇ!」
その叫びが、芳香の支配の向こうへ響いた。




