香る静寂
――泡のように、静かに、しかし確かに広がっていく気配だった。
赤ワインの霧が晴れたその瞬間、世界は一変した。
葡萄姫の手にあるワイングラスが、再び色を変えていく。深紅から、澄みきった白へ。そして、静けさが場を支配し始めた。
それは、さながら舞台の幕間。興奮と狂気の祝祭がひととき休まるような、張りつめた静寂――。
「《白の醸術・静寂の抱擁》」
葡萄姫の声は、まるで聖歌のようだった。
ふわり、と。
白ワインの香気が空気中に滲み、花びらのように舞い降りる。
その一滴一滴が、身体の芯にまで染み込むようで、わたしの喉奥が自然と鳴った。
「……なに、これ……」
倒れていたミスティアが、ゆっくりと目を開ける。
「まるで……水に還るみたいです」
クラリスの肩にも、癒しの光が宿っていた。
あの強靭な剣士が、わずかに肩を上下させながら息を整えている。
「治癒……でも、ただのヒールじゃないわ。心まで洗われるような……」
「そう。白は穏やかさと理性の象徴」
葡萄姫が舞台の主役のように回りながら告げる。
「赤が情熱なら、白は静謐。私は、どちらも愛しているわ」
その動きは、ダンスのようだった。
優雅で、軽やかで、そして隙がない。
だが、わたしは見逃さなかった。
その切り替えの瞬間――グラスの中で色が揺れるあの一瞬だけ、彼女の呼吸がわずかに乱れる。
そのわずかな“静寂”こそ、戦いの焦点。
(白の魔法……これは、持久戦に持ち込むつもりか)
再び赤に染まる前に、こちらの呼吸を奪う。
高級ワインのデキャンタージュのように、時間をかけて相手の芯まで酔わせていくスタイル。
それが葡萄姫の“戦い方”だ。
「クラリス、ミスティア。まだ動けるか?」
「もちろんです」
「ええ、平気。……癒しの一杯、ありがたくいただいたわ」
クラリスが微笑み、剣を掲げる。
その目はすでに、次の戦局を見据えていた。
私も《酔楽の酒葬》に手を添える。
(勝機は、必ず来る)
葡萄姫は言った。
「赤と白だけでは、あなたたちは私に勝てないわ」
ならば、こちらも“色”を足すだけだ。
◆
再び始まった戦闘は舞踏会だった。
葡萄姫のドレスは赤と白の中間――ロゼの淡い色彩に染まり、その手には常にグラスがある。
ワインの銘柄に応じて、魔法の性質も異なるらしい。
赤ワイン:《情熱の霧》、視界を奪う幻覚と高熱による精神干渉
白ワイン:《静寂の抱擁》、治癒と緩やかな感覚遮断
そして――ロゼワイン:両者を交差する“中和と混濁”
「《ロゼ魔法・夢境の回廊》!」
グラスを掲げると、葡萄姫の周囲にピンク色の輪が三重に展開された。
その輪から放たれる香りは赤とも白とも違った。
甘く、苦く、なつかしい。
「っ……なに、これ……身体が……重い……」
香気が神経を絡め取る。
理性と感情の境界があやふやになり、意識が夢の中に沈みかける。
「これが……ロゼ……!」
膝をついたミスティアが震える指で詠唱しようとする。
だが、口がうまく動かない。
それがロゼの効果。
白の冷静さと赤の情熱の狭間で、心を迷子にさせる――
それはまるで、“美しい悪夢”。
視界がにじむ。
風が止まる。
葡萄姫がこちらに向けて優雅に手を伸ばしてくる。
「いい夢を見て。これは、祝福なのよ」
(違う。こんなものは……)
わたしは、かすれた声で瓢箪を開いた。
「……《炎撃強化・スモークフォーム》」
しゅん、と軽い破裂音とともに、炎が空気を裂く。
香ばしい麦芽の匂い。焦げたような、重厚な煙の香り。
「……目ぇ覚ませっての。酔うなら、楽しい方にしろよな」
地面を蹴り、赤と白の狭間に立つ彼女へと飛び込む。
ロゼの香気がわたしを包み込む。
だが、負けない。
「伊吹ッ!」
クラリスの叫びと共に、ミスティアが《泡沫魔法・穿突:スパークリングスピア》を放つ。
白泡の槍がロゼの結界に突き刺さり、香りの膜が一瞬だけ薄れる。
その隙間――ほんの一瞬。
わたしは酔鬼ノ号哭を構えた。
葡萄姫が振り返る。
「っ……また、あなた……!」
「今度こそ――打ち抜く!」
その瞬間。
彼女のグラスが――ほんのわずかに、揺れた。
(切替の瞬間――!)
赤から白への遷移。
ワインが一瞬、グラスの中で“無色”になる。
その刹那。
「くらえええええええええ!!」
酔鬼ノ号哭が風を裂いた。
だが――
「……あら、惜しいわね」
葡萄姫は一歩、後退していた。
グラスの中にはもう赤ワイン。
そして、金棒は空を斬った。
「ふふ、いい酔い加減になってきたじゃない」
葡萄姫の微笑みはどこまでも妖艶だった。
「さあ、まだまだこれからよ。――もっと深く、酔いなさい」
◆
その場に、再び“赤”が降り注いだ。
香りが熱を帯びる。
幻覚が再び視界を奪う。
だが、わたしはもう理解していた。
(勝機は、ある。あの一瞬……切替の瞬間にだけ、こいつの魔法は“空白”になる)
ただし、それは一瞬。
香りが“赤”と“白”を繋ぐ、そのわずかな狭間。
(狙うしかない。――ワインより熱い、わたしたちの想いで)
視界が再び暗くなっていく中、仲間の声を信じて目を閉じた。
(ロゼの香りなんかじゃ、私たちは酔わない)
(……次は、必ず“乾杯”してやる)




