赤と白の狭間で
―この芳香は、祝福か、毒か。
広場に響いたのは、ワインのグラスが砕ける乾いた音だった。
「《泡沫魔法・滑層:スリップフォーム》!」
ミスティアの詠唱が走る。
足元の石畳に薄い泡膜が広がり、滑りを生んだ瞬間、舞い散る赤い液体が地面を裂くように叩きつけられた。
――赤ワインの一撃。
それは魔法ではない。
ただの液体でもない。
それは“香りで人を酔わせ”、その“酔いで心を縛る”という、芳醇なる呪術。
「なにこれ、うっわ……目が、くらむ……!」
口元を布で覆いながら、ギリギリで後方に跳ね退く。
飛散した赤のしぶきが地面を焦がし、周囲の屋台にまで火花が走った。
「なんて香り……攻撃手段が全部、ワインってわけ?」
「あれは“赤”……情動に訴える魔術の系譜みたい」
クラリスが冷静に状況を見極めながら、剣を抜く。
「甘美で、熱い。恋慕のように絡みつき、心の防壁を融かしていく。……あの女、ただ者じゃない」
葡萄姫は仮面の下で微笑みながら、グラスに赤を注いでいた。
「愛と苦痛は、同じ色をしているのよ。――ご存じなくて?」
そして、その手を振る。
赤い雨が降った。
いや、正確には――ワイングラスから生まれた“魔性の雫”が、空間そのものを染め上げたのだ。
「《赤の醸術・情熱の霧》」
紫煙のような赤ワインの香霧が伊吹たちを包み込む。
途端に、視界がぐにゃりと歪んだ。
「っ……クラリス!? ミスティア!? ……どこ!?」
仲間の気配が掴めない。
鼓膜をくすぐるようなワルツ、舞うような貴婦人のステップ、芳香のカーテン。
全てが、現実と幻の境界を曖昧にしていた。
(ちっ、これって……“幻覚”の派生か? 泡伯のとは、質が違う……)
泡伯の幻覚は精神の不安を煽る“狂い酒”だった。
だが、葡萄姫の香りは違う。
もっと穏やかで、優雅で、抵抗する気力を削いでいく。
それが、“赤ワインの魔術”――。
「……あなた、強いお酒に慣れているのね」
ふいに、耳元で囁く声。
振り返れば、葡萄姫がすぐそこにいた。
ドレスの裾からワインの香が滲み、金の瞳が覗く。
「けれど、どうかしら。これは、少し……特別なのよ」
彼女がそっと差し出したのは、今度は透明な液体。
「“白”も、味わってみて?」
白ワイン。
その瞬間――空気が変わった。
◆
「《白の醸術・静寂の抱擁》」
葡萄姫の声が響くと、広場に漂っていた紅の霧がふわりと引いた。
視界が、クリアになる。
「なっ……?」
足元には、泡に包まれたミスティア。
倒れかけていたクラリスの肩には、癒しの光が宿っていた。
――治癒。回復。浄化。
「白ワインの香りは理性を戻すの。興奮と情動を静め、冷静にさせる。だからこそ“赤”と“白”は対になる」
葡萄姫はゆるりとスカートの裾を持ち上げ、優雅に一礼する。
「赤が熱で、白が冷。あなたたち、きっと、どちらか一つでは勝てないわ」
その言葉と共に、葡萄姫のドレスが変化した。
赤と白が交差する、淡いロゼカラー。
「そして私――“ロゼ”の魔女は、その狭間に咲く花」
《ロゼ魔法・転換》
その瞬間、彼女の身体が一瞬ふらついた。
(――今、だ!)
わたしは迷わず駆けた。
香りの切り替え、赤から白への魔法の遷移。それが、彼女の隙――!
「伊吹っ!」
クラリスの叫びと共に、《酔楽の酒葬》が爆ぜる。
「《炎撃強化・スモークフォーム!》」
燻した麦芽の香が空気を裂く。火を纏った拳が、葡萄姫のドレスの裾をかすめる――!
が。
「……あら。惜しいわね」
葡萄姫は一歩、後退した。
すでにワイングラスは“赤”に切り替わっていた。
「だけど、次は許さない」
彼女の口元が、笑う。
「……たっぷりと、酔っていただくわ。今度こそ、ね」
――葡萄姫の“赤”が、再びわたしたちを包み込もうとしていた。
◆
遠ざかる意識の中で、わたしは思う。
(赤は、支配と熱。白は、理性と癒し。そして――)
(その狭間に立つ“ロゼ”。こいつ……ただのワイン女じゃない)
赤と白を切り替える、その一瞬が隙。
その瞬間こそ、勝機。
(やるしかない。この酔いの中で、“一番気持ちよく酔ってやる”)




