葡萄の貴婦人
―ワインの香りに隠された、優雅なる罠。
泡鳴区を離れ、旅の次なる目的地は〈ロトヴィーノ〉。
丘陵と葡萄畑に囲まれた、美酒と芸術の街。
市場には熟成香漂う赤ワインが並び、路地には白ワインを片手に語らう詩人の姿。
わたしたち辿り着いたのは、まさに“酒の文化”が根付いた優雅な街だった。
「へぇ〜、なんか雰囲気あるじゃん。ワインの香りで酔えそう」
手にしたのは、露店で売られていたワイン風味の干し葡萄。
試しに一粒口へ含むと、渋味と甘味のバランスが絶妙で、思わず顔がほころぶ。
「どうやら今夜“葡萄祭”があるようですよ。ワインと舞踏の祭典……なんて書いてあります」
ミスティアが掲示板のポスターを指差す。
葡萄の房を模した装飾が町中に飾られ、中心広場では屋台の設営が進んでいた。
「どうする? 一泊して祭り、参加しちゃう?」
わたしの提案に、クラリスが小さく笑った。
「祭りに紛れて情報収集というのも、悪くないかな」
彼女の視線は、街の奥にそびえる“熟成の塔”へと向けられていた。
伝承によれば、古の葡萄神が眠るとされる伝説の酒蔵だという。
◆
夕暮れ、空が赤ワインのように染まり始めた頃――
わたしたちは祭りの中心広場に足を運んでいた。
人々はワイン片手に語らい、音楽と踊りの調べが夜風に溶けてゆく。
「おや、あなたがた。旅の方かね?」
声をかけてきたのは地元のワイン職人風の老人。
腰には古びたワインオープナーを提げている。
「ワイン、召し上がりましたかな?」
「ええ、さっき露店で。めっちゃ香りがよくて……あれって、ここの特産なんですか?」
わたしの問いに、老人はふと表情を曇らせた。
「……本物ならば、な」
「え?」
老人は周囲を警戒するように目を細め、声を潜める。
「ここ数日、この街に“偽ワイン”が出回っとる。見た目も味もそっくりじゃが、飲んだ者は……夢うつつに惑わされ、まともに会話もできぬ状態になる」
「それって、酔っ払ってるんじゃなくて……?」
「違う。幻を見て、戻って来ぬ。気づけば所持品を盗まれている者もおる。祭りの夜を狙った、巧妙な仕掛けじゃ」
言葉の最後に、老人は吐き捨てるように言った。
「――“葡萄の貴婦人”の仕業だと、噂されとる」
わたしたちは一斉に顔を見合わせた。
「貴婦人?」
「姿を見た者によれば、夜の広場に突如現れるらしい。艶やかなドレスに、葡萄色の仮面……香りで人心を惑わす、美しき魔女だと」
「……なんて都合のいい話だろうねぇ」
腰の瓢箪をそっと撫でた。
「やってることは“酩酊の魔法使い”ってとこか。ねぇクラリス、ミスティア。明るいうちに、広場の様子見とこう」
「了解です。被害者が出ているのなら、ギルドに報告も必要でしょう」
「万が一、魔王軍と関係があるとすれば――放ってはおけないからね」
◆
夜――
祭りは最高潮に達し、中心舞台では優雅なワルツの音楽が響いていた。
その瞬間。
舞台の奥から、ひときわ目を引く存在が現れた。
葡萄の房を思わせる深紫のドレス。
肩に羽織ったショールは赤ワインのように妖艶に揺れ、顔を覆う仮面の隙間からは金色の瞳が覗く。
「――皆さま、ご機嫌よう。芳醇なる夜へ、ようこそ」
その女は舞台の主人のように観客を見渡す。
そして手にしたワイングラスを、高々と掲げた。
「この一杯に、祝福を――」
風が吹く。
香るのは、葡萄の熟成香ではなかった。
もっと、甘く、官能的で、理性を鈍らせるような――“魔性の芳香”。
「くっ……!」
クラリスが鼻を押さえ、ミスティアが呟く。
「……これは、芳香による魔法……です。人の精神に、作用します……!」
周囲の観客が次々と顔を紅潮させ、うっとりとした表情で女を見つめていた。
意識は朦朧とし、誰もが陶酔していく。
「来たね――“葡萄姫”ってわけか」
手にした瓢箪《酔楽の酒葬》の栓が、ポンッと外れる。
「この酔いは祝祭の酔いじゃない。毒だ。二人とも気をしっかり持って」
目の前の“貴婦人”と、観客を区切るように一歩前に出る。
葡萄姫の仮面が、すっとこちらを向いた。
金の瞳がわたしのものと重なる。
そのとき、わたしたちの間に漂った空気は――決してワインの香りなどではなかった。
それは、戦の匂いだった。




