村に陽が射す朝
夜が明けた。
濃密な泡の霧が嘘のように消え去り、ロッカ村には久方ぶりの朝日が射していた。
世界そのものが一つ深いため息を吐いたようだった。
「……ようやく、終わったんだ」
わたしは小さく呟きながら、《酔楽の酒葬》を軽く叩いた。
中身は空っぽだ。
あの一撃にすべてを込めたのだから。
「伊吹ー!」
村の中央広場。
泡が引いたその場所で、クラリスが手を振っている。
その隣には意識を取り戻し始めた村人たちが、ぽつぽつと集まっていた。
「よく寝た気がします……」
「ここは……ロッカ村……?」
「なんだか……ずっと夢を見ていたような……」
彼らの瞳は薄く濁っていた泡の膜を剥がされたように、ようやく世界を見ている。
泡伯の幻術、《桃源泡界》の影響だ。
意識を封じられ、快楽の夢を見せられ、自我を奪われた数日間。
それでも、泡が消えたことで少しずつ正気を取り戻している。
「クラリス、ミスティア。住民の避難誘導と状況確認、頼める?」
「もちろん!」
「把握しました。軽い混乱はありますが、大丈夫そうです。皆さん、すぐに落ち着かれました」
ミスティアの冷静な報告に、私は胸を撫で下ろす。
「よかった……」
広場の端に座り込み、空を見上げる。
夜明けの空は泡の名残すらないほど澄んでいて、まるで何事もなかったかのように青かった。
◆
「それで、その黒い酒瓶が“泡伯”の痕跡……?」
村の民家を借り、即席の作戦会議が開かれた。
テーブルの上には、黒いガラスのような異形の酒瓶が置かれている。
表面は光を吸い込むように鈍く、触れるだけで皮膚が泡立ちそうな禍々しさをまとっていた。
「これは間違いなく“魔王軍の証拠”になります」
ミスティアが頷く。
彼女の手には泡伯が消える直前に残していった“紋章”の記録魔導紙。
「魔王軍……実在したのね」
クラリスが低く呟く。
「言い伝えや物語の中だけの存在だと思ってましたけど、まさか……」
そう、これまではあまりにも静かだったのだ。
わたしはこの世界に来てから、ギルド依頼や酒探しの日々を繰り返していたが、「魔王」や「その軍勢」などはただのファンタジー扱いで、本格的な影などなかった。
けれど今、それが現実のものとして眼前に姿を現した。
そして――その幹部が酒の力で襲ってきた。
「酒が敵にもなるなんてね」
わたしはぽつりと呟く。
「けど……だからこそ、負けるわけにはいかない。こっちはこっちで、“美味しい酒”を守りたいから!」
「ふふっ、伊吹さんらしいですね」
ミスティアが柔らかく笑い、クラリスも肩を竦めた。
「じゃあ……これからどうする?」
クラリスが尋ねる。
その問いに、わたしは椅子から立ち上がった。
「まずはギルドに報告。これは重大な情報になるはずだ」
「泡伯の撃破、魔王軍の存在、その証拠……」
「全部まとめて、報告だ。これでようやく、物語が“始まった”って感じだよ」
わたしは大きく伸びをした。
「でもその前に」
腰の瓢箪に目をやる。
「飲みすぎて空っぽなんだ。泡鳴区に帰ったら、仕込み直しだな。うまいチューハイでも造って、祝杯あげよう!」
クラリスとミスティアが、同時に笑った。
「そのときはぜひ、私にも一杯くださいね」
「もちろん。今度はスパークリングも強めでいくから、覚悟しとけ?」
「……ほどほどでお願いします」
ミスティアが苦笑する。
こうして、ロッカ村は救われた。
泡の支配から脱した村人たちは徐々に生活を取り戻していくだろう。
けれどわたしたちの旅路はここからが本番だった。
泡伯――魔王軍八将のひとり。
ならば、残る幹部はあと七人。
戦いは、今まさに始まったばかりだ。
◆
その日の昼下がり。
ロッカ村の外れにある小さな丘の上に、わたしたち三人は並んで立っていた。
眼下には平和を取り戻した村。
そして空には雲ひとつない青が広がっている。
風が吹く。
泡の匂いは、もうどこにもない。
「さあ、次の一杯を探しに行こうか」
わたしは、空に掲げるようにして笑った。
――村に、陽が射す朝だった。




