泡と魔法の狭間で
泡が、風に舞っていた。
ひとつ、またひとつ。
村の空に放たれた白い泡は、祝福の鐘のようにふわりと広がりながら降り注いでいた。
――だがその中心には、神ではなく、狂気が立っていた。
「……泡伯」
わたしは言葉を呑んだ。
泡の柱が収まり、そこに立っていたのは――人か、神か、それとも。
白い泡に包まれた、ローブ姿の男。
背丈は高く、どこか浮いているように見える。
足が地面についているのかも分からない。
顔は見えない。
泡のベールに覆われ、ただ淡い笑みだけが、うっすらと浮かんでいた。
「おいおい、マジかよ……本当に“出てきた”ってワケ?」
わたしは瓢箪《酔楽の酒葬》を腰から外しながら呟く。
隣では、ミスティアが魔力の制御を始めていた。
空気が緊張する。
空気に含まれる泡すら、張りつめているように見えた。
「――あなたが、泡伯ですか」
クラリスが一歩、前に出る。
剣を逆手に構え、迷いはない。
泡伯は何も答えなかった。
ただ、泡に包まれた顔の奥から、ひとつ、深い吐息がこぼれた。
「……泡の中では、誰もが自由になれる」
声はやけに穏やかで、眠気を誘うようだった。
「心を縛る鎖も、痛みも、孤独も、責任も……すべて、泡に乗せて、解き放てばいいんだ」
その瞬間、泡が炸裂した。
「っ――来る!」
わたしは咄嗟に横へ跳ぶ。
泡伯の周囲にあった泡が、まるで砲弾のように放たれ、空間を揺るがす。
爆音はない。
だが、泡に触れた木造の建物が――音もなく、崩れ落ちた。
「浸蝕型……! これは普通の泡じゃない!」
ミスティアが叫ぶ。
彼女の掌には、すでに銀細工の杖が構えられていた。
「伊吹さん、援護をお願いします。ここから先は、魔法で応戦します」
「ああ、任せた。泡vs泡ってわけだな」
ミスティアは小さく頷き、泡伯に杖を向ける。
「――《泡沫魔法・穿突:スパークリングスピア》!」
発せられた魔力が無数の炭酸の泡を束ね、螺旋状に回転しながら前方へと放たれる。
鋭い炭酸の槍が、泡伯の胸元を貫かんと突き進んだ――
「……あまいねぇ」
泡伯が微笑んだ。
次の瞬間、周囲にあった泡が逆流し、スパークリングスピアを包み込むように迎撃する。
魔法の泡と、泡伯の泡がぶつかり合い――
「……溶けた!?」
ミスティアの魔法が泡の海に呑まれるようにして霧散した。
「っ……これは“泡魔法”じゃない……まったく異なる理……!」
ミスティアの顔がこわばる。
彼女は自分の魔法が通じなかったことよりも、“泡”という同質のものが異質に捻じ曲げられている事実に、強く動揺しているようだった。
「泡伯の泡……まるで“意思”を持ってるみたい」
クラリスが剣を振るい、迫る泡の触手を斬り払う。
切られた泡はすぐに再生し、次々と絡みつこうと襲いかかってくる。
「動きが……ぬるいのに速い!」
クラリスが叫ぶ。
泡は重さを感じさせないのに、剣撃のタイミングを外すように動く。
まるで予測されているかのような不快な遅延。
「泡って、こんなに強いのかよ……!」
わたしは腰の瓢箪を振るい、中の酒気を周囲に噴射する。
それが一瞬、泡伯の泡を弾くが、効果はごくわずか。
「伊吹さん、泡伯の泡は“意識干渉型”です!」
ミスティアが息を切らしながら警告する。
「こちらの集中力や判断力を鈍らせて、抵抗力を下げてから“泡に委ねさせる”仕組みなんです!」
「……つまり“酔わせて落とす”ってタイプか」
わたしは歯を食いしばった。
確かに――この泡の中では身体が重い。
少しでも気を緩めると、泡の中に溺れていきそうになる。
「楽になりたいでしょう……?」
泡伯の声が、脳に直接響く。
「戦わなくていい。苦しまなくていい。ただ、泡に抱かれて、浮かんでいればいい」
――それは、優しい悪夢だった。
泡に包まれる快楽と漂う安堵感。
それは眠る直前のまどろみのようで――
――でも、それは“生きる”ってことから、遠ざかる。
「……なめんなよ」
わたしは顔を上げた。
「酔うのは好きだ。でも、溺れるのは嫌いなんだよ」
泡伯が、初めてこちらに顔を向けた気がした。
泡のベールの奥で、何かが蠢いた。
「伊吹さん、もう少しで、次の酒バフが使えるはずです! 瓢箪の内部、泡の性質に反応して――」
「……分かった」
わたしは《酔楽の酒葬》を構えた。
「……新しい酒、いくぞ。今こそ、泡に泡で対抗する時だ」
新たなる酔いが、いま、わたしの中で発泡しようとしていた――。




