泡に沈む村
ぎし、と軋む音と共に馬車が止まった。
「……着いたみたいね、ロッカ村」
カーテンの隙間から外を覗きながら、クラリスが低くつぶやいた。
真面目な表情に、どこか緊張が滲んでいる。
馬車の扉を開け、わたし――伊吹が外へ降り立つと、鼻先に湿った空気がまとわりついた。
夏の終わり、夕暮れどきの村。
石畳の道沿いには平屋の木造家屋がぽつぽつと並び、どの家の壁もひび割れ、塗装が剥がれている。
「……人がいませんね」
後に続いて降りてきたミスティアが、周囲を見回しながら言った。
水色のローブの裾が風に揺れる。
「この時間なら、子どもが遊んでてもいいのに」
「静かすぎるわ」
クラリスが剣の柄に手を置いた。
確かに、異様な静けさだった。
耳を澄ませば、遠くで鳥の声と――
「……シュワ、シュワ……?」
どこからか聞こえてくる、泡のはじけるような微かな音。
泡?
「見てください、あれ……!」
ミスティアが指差した先。
村の中央に続く通りの向こう、井戸のそばで、何かが――白く、もこもこと――
「泡だらけだ……」
泡。
まるで浴槽からあふれたように、白い泡が、地面を這うように広がっている。
しかも、その泡の動きは――生きているかのようだった。
「泡の魔法……? でも、こんな量……」
「近づいてみよう」
私は《酔楽の酒葬》を握りしめながら、一歩を踏み出した。
泡は異様に軽やかに、風に乗って揺れていた。
そのどれもが光を含み、夕暮れの光を柔らかく反射している。だが――
「この匂い……」
私の鼻先に、刺すようなアルコールの香りが届いた。泡からだ。
「酒の泡?」
「泡の魔力反応があります。……高濃度です」
ミスティアが魔導器を取り出し、針の揺れを見せてくれる。
その瞬間。
「ううっ……」
路地の奥から、苦しげなうめき声が聞こえた。
「誰かいる!」
駆け出した先――小さな雑貨屋の前で、一人の男が膝をついていた。
顔が赤く、目は虚ろ。口元からは泡が――
「酔ってる……?」
「泡を吸って酩酊しているんです!」
ミスティアが駆け寄り、男の頬を軽く叩いた。
「ダメです、この状態は……魔力による強制酩酊。普通の酔いじゃありません。意識を支配されかけてます……!」
「……やっぱり、ただの泡じゃないってことか」
私はポーチから塩を取り出し、男の額に振りかける。
微かに反応があり、男の意識が僅かに戻った。
酔い覚ましには塩がいいと聞いたことがあるけど本当だったんだ。
「……きた、んだな……外の……冒険者……」
「無理に話さないで。何があったの?」
「泡……が……村を、包んで……みんな、酔って……自分を、見失っていく……」
男は言葉を繋ぐのも辛そうだったが、最後にこう言った。
「泡の主……が、来たんだ……《泡伯》が……」
その名を聞いた瞬間、私たちは顔を見合わせた。
「泡伯……?」
明らかに“普通の事件”じゃない。
その名前には、明確な“敵意”と“力”の響きがあった。
泡の主、泡伯――
「……魔王軍だな」
わたしが呟くと、クラリスが鋭い目で頷いた。
「この村、包囲されてるわ。泡に、心まで奪われてる」
「それなら……救わなきゃですね」
ミスティアの声が震えていた。
でも、その目は真っ直ぐだった。
――泡に沈んだ村。
そこには、酒のように甘く、しかし意識を溶かす泡が漂い、人々を酩酊させ、無抵抗にしている。
だが、それを操る“泡伯”という存在は、まだ姿を現していない。
夜が近づく。
泡は月明かりを浴びて、さらに増えていた。
そしてわたしたちは、村の中心へ向かって歩き出す。
泡の正体を突き止めるために。
“正義の酒”と“狂気の泡”が交差する、その前夜のことだった。




