魔王軍の影、泡鳴に差す
朝霧が、泡鳴区の路地を白く包んでいた。
その中を歩くわたしたちの足音だけが、しっとりとした石畳に響く。
「ねえ伊吹……これ、ただの霧じゃないよね?」
クラリスが訝しげに空を見上げた。
淡く漂うその靄は、ただの水分ではなかった。
湿った空気に、焦げたような匂いと、かすかな鉄の味が混じっていた。
「んー……これは、“呪気”の一種かもしれませんね」
ミスティアが袖口で口元を押さえながら言う。
彼女の目が、警戒心でわずかに細められていた。
「呪気、ねぇ。いよいよって感じかな?」
私は腰の瓢箪《酔楽の酒葬》を軽く指で弾いた。
中に宿る酒たちが、ことり、と音を立てて反応する。
――来るなら来い。酔わせてやるから。
ギルド本部の前に着くと、既に数人の冒険者たちが詰めかけていた。
掲示板の真ん中には、見慣れない色の依頼札が打ち込まれていた。
それは、濃い紅――まるで血のような色をした、特級緊急依頼だった。
■緊急調査任務
依頼内容:泡鳴区近郊の“ロッカ村”に黒霧発生。住民一部避難済。原因不明。
任務:霧の発生源調査と封鎖。
危険度:特A級(討伐対象不明)
「……“黒霧”。これは――」
クラリスが言葉を詰まらせる。
「……魔王軍の可能性が高いですね」
ミスティアが、指先で掲示板を指した。
その下に添付された報告書には、現場で写された一枚の絵が添えられていた。
石畳の地面に刻まれた、見たこともない文様。
血のような赤で描かれた円陣に、酒瓶のような模様。
その中心に、逆さにされた盃の印。
そして――その下に書かれた、悪意に満ちた文言。
『八酔将、参上せり』
「……八酔将?」
わたしはその言葉を、口の中で転がす。
「魔王軍幹部の名称だと思われます」
ミスティアの声は落ち着いていたが、その背筋はピンと張っていた。
八人の酔いどれ将軍。
あまりに皮肉で、そして――
「お酒、関係してそうですね」
「うん。これは……放っとけないな」
酒好きとして、許せない。
酔いの冒涜は、私の敵だ。
「魔王軍か……いよいよ“来た”ってワケね」
私は瓢箪《酔楽の酒葬》を腰に下げ、ぼんやりと依頼書を眺める。
――ずっと来なかった“敵”が、ようやく姿を見せたってワケだ。
魔王軍。
それは私がこの世界に来たとき、酒神バッカスに「そのうち倒してほしい」と頼まれた、ぼんやりした存在だった。
でも、ここにきて急に現実味を帯びてきた。
私は肩をすくめながらも、内心どこかざわついていた。
いや――違う。これは、ぞくりとした“期待”だ。
私がこの異世界に来た理由のひとつ。
それが、ようやく物語として動き出すのだから。
「受付嬢のミナさんが、追加情報を持ってます」
ミスティアに言われるまま、受付に向かう。
そこにいたミナさんは、相変わらずほわんとした笑顔だったが、今日は書類の束を抱えていた。
「伊吹さんたち……来てくれたんですね。これ、現場で見つかった追加の記録です」
差し出されたのは、黒い封筒に入った一通の報告書。
中には手書きの走り書きと、もう一枚の絵が入っていた。
その絵には、村の祠の壁に焼き付けられた文字が写っていた。
“乾杯せよ、我らが主へ。酒を捧げよ、世界の終わりに。”
「…………」
静寂が落ちた。
「……魔王軍の宗教的思想か、はたまたただの酔っ払いか……」
「これは完全に、“お酒”を冒涜してる」
わたしはぼそりと呟いた。
酔いとは本来、楽しいもののはずだ。
なのに、こんなふうに使われてるのは、ムカつく。
「だったらさ、迎え撃ってやるしかないじゃん」
わたしはくい、と瓢箪を掲げた。
「こっちは“本物”を背負ってるんだから」
「本物の酒バカもね」
「本物の酔いどれも背負ってます」
クラリスとミスティアがそれに続く。
「よし。行こっか。八酔将のお出ましなら、こっちも新しい酒バフで迎えてやらなきゃね」
「出撃準備、整えておくわよ」
クラリスが頷く。
「泡鳴チューハイのバフも、戦闘でどの程度か検証しておきたいです」
「ま、飲み比べじゃないけど――」
わたしは笑う。
「ウイスキーとチューハイ、どっちが強いか、実戦で試してやろうじゃん?」
◇◇◇
準備は整った。
「ロッカ村に向かいましょう。八酔将の痕跡、そして……黒霧の正体を確かめに」
「うん。酒好きの名にかけて、変な奴らの乾杯には……酔わせ返してやんないとね」
夜明け前。
泡鳴の街に、静かに旅立ちの風が吹いていた。




