100話到達記念!特別短編『酔わずに酔う夜』
その日、私は人生で初めて――酔わずに酔った。
中学二年の冬。
雪がちらつく夜の空気は澄み渡っていて、月はやけに近く見えた。
塾の帰り道、吐く息が白い。
コンビニで肉まんを買おうとしたけれど、小銭が足りなくて諦めた。
ほんのり空腹で寒くて、でもどこか満たされていた。
家に帰ると、テーブルに小さな包み紙が置いてあった。
父が「取引先からもらったやつだ」といって、乱雑に放り投げた銀色の箱。
大人っぽいデザイン。文字は難しい英語でよく読めない。
だけど、角ばったその包装がわたしにはやけに格好よく見えた。
「ウイスキーボンボンだって」
母が苦笑いしながら言った。
チョコレートの中にウイスキーというお酒が入っているらしい。
「子供でも食べていいけど、伊吹にはまだ早いわよ」と母に言われた。
けれど、なぜか父が「一個ぐらい食ってみろよ」と笑った。
父のそういう無責任なところがちょとだけ好きだった。
封を開けて、銀紙をはがす。
ウイスキーのボトル型がなんだがかわいく見えた。
わたしはぽん、と口に放り込む。
――次の瞬間、世界が変わった。
チョコレートの甘さと同時に、どこかスモーキーで、熱をはらんだ香りが鼻を突き抜ける。
まろやかな甘みの奥に、微かに火が灯ったような苦味。
苦くて、甘くて、温かくて、熱い。
「……なにこれ」
体の中が火照るようで、でもまったく酔ってはいなくて、だけど心がふわふわしていた。
酔っていないのに、酔ってるみたいだった。
「……おいし……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
ただの甘いお菓子じゃない。
そこには物語があった。異国の風のような、誰かの人生のような、深くて複雑な味が――ひとくちのチョコに詰まっていた。
その夜、わたしはウイスキーボンボンの包み紙をノートの間に挟んだ。
捨てられなかった。
なんだか誰にも知られたくなかったからだ。
それからだ。
私は「お酒」というものに、強烈に惹かれていった。
もちろん、未成年だからお酒は変えなかったし、父のお酒を飲むこともできない。
でも、酒粕を使ったスイーツ、甘酒、奈良漬、ケーキ、アイス、ババロア、焼き菓子――
“酔わずに酔える”食べ物を片っ端から試すようになった。
売り場でパッケージを確認して、アルコール分が入っていないか探す癖がついた。
スーパーに売っているラムレーズン入りの焼き菓子をこっそり食べて「これは……いける」とひとり頷いた。
中学の給食にたまに出る「甘酒ゼリー」は、みんなが嫌って残す中、わたしだけがうれしそうに三つも食べた。
「伊吹って変わってるね」と言われたが、わたしは気にしなかった。
高校に入ってからもその興味は続き、家庭科の授業で作った「パンケーキ」に、勝手に酒粕を入れて班員に怒られたこともある。
友達はみんな期間限定のお菓子やコンビニの新作スイーツに夢中だった。
わたしはといえば、甘酒を温めて、湯気を吸いこむように飲んでいた。
風邪をひいたときは決まって玉子酒をつくった。
何度も言うが、飲んだわけじゃない。
けれど、あの香りが、あの深みが、私の心をほぐしてくれる気がした。
わたしはずっと思っていた。
大人になったら本物のお酒を飲んで、心から好きになれたらいいな。
あの夜の感動を――その続きをずっと夢見ていた。
そして。
二十歳になった誕生日の夜。
わたしはついにお酒を手に入れた。
ビール、発泡酒、ワイン、日本酒、焼酎、ウイスキー、ブランデー、ウオッカ、ジン、ラム、テキーラ、梅酒、リキュール。
そしてスピリタス。世界最強のアルコール度数を誇る酒。
部屋は酒瓶で埋め尽くされていた。
Barでは加湿器にお酒を入れて楽しむ店もあると聞いたことがあるので、真似してスピリタスを加湿器に入れ、部屋中に香りを満たした。
――そして。
「うっわ……これは、ヤバいかも」
立ち上がろうとした瞬間、視界がゆがんだ。
足元が揺れ、世界がふわっと傾く。
あの夜のウイスキーボンボンの続きを、やっと味わえた気がした。
苦くて、甘くて、温かくて、熱い。
――これでようやく。
そう思った瞬間、意識がすうっと闇に溶けていった。
異世界に来て、わたしは思う。
「へへっ……神様、ありがとう。やっと飲めるよ。本物のお酒を」
あのウイスキーボンボンから始まった物語がようやく本編に突入したって感じだ。
あの頃のわたしに伝えたい。
いつかわたしは世界でいちばんおいしいお酒を掲げる日が来るんだって。
――それが、ただの酒じゃない。
命を燃やす、魂の燃料になるような、そんなお酒だってことを。
今夜もわたしは酔わずに酔う夜を思い出しながら、酔いどれ冒険者として、異世界のど真ん中で酒瓶を掲げる。
「――乾杯!」




