6 スイッチバックと無色の風呂
評価ページの下にコトブキ君の解いた詰将棋のリンクがあります。本章は「詰将棋6」です。ご参照ください。
如月の強い寒気の中、僕には一つの楽しみが出来ていた。きっかけは、ナツミさんの知り合いの神主が平日に旅行をしたいので、留守になる神社を任してほしいという話だった。その代わりに次の日曜日、ナツミさんの代理で一日働くことになった。だから、その日は僕も彼女も休みになる。
そこでせっかくだから、一緒に温泉に行かないかと、ナツミさんから誘われた。もちろん、僕は承諾した。ナツミさんと一緒にどこかへ行けるなんて夢のようだ。僕はその日を楽しみにしていた。
そして、遂にその日が来た。僕の真上には、晴れやかな空が広がっていた。神主のおじさんに挨拶をしてから、裏口の鳥居をくぐり、小型荷台車に乗る。しかし、僕は普通の車にそぐわない、ある点に気づく。乗車口の扉の枠が、赤く塗られていることだ。
「ナツミさん。どうして、この枠の部分は赤く塗られているのですか」
僕の疑問に厚めの白い外套を着た彼女が答える。
「それはね、この車に神様も乗れるようにするためだよ。つまり、その扉は鳥居と同じような意味だね」
この時、僕はこんなところにも、気を使っているのだと感心した。けれども、そんな気遣いはこの世に本当にあるのだろうか。結局、分からずじまいだった。
僕が腰にシートベルトを着用したのを確認して、彼女はアクセルを踏んだ。裏道を進む荷台車はグラグラと揺れる。最初は遊園地の遊具のようで楽しかったが、しばらくすると、腰が痛くなってくる。視界に舗装された道路が見えた時は、正直、ホッとした。
その道を少し走ると高速道路に出た。乗り心地は良かったが、トンネルばかりの山道で、景色を楽しむには退屈だ。それを感じ取られたのか、隣にいたナツミさんに、声を掛けられる。
「せっかくだし、奇麗な海を見ようか」
海の気配など少しも無いので、僕は彼女の言葉を疑っていた。しかし、高速道路を離れ、国道を進むと、右手側に大きな海が見えてきた。
「いい景色ですね」
「そうでしょう」
海は太陽の光を浴びて、きらきらと光っていた。あまり、長くは見れなかったが、旅をしている実感を得るには十分だった。そして、僕の隣にはナツミさんがいる。それは、こたつ列車で見た海との最大の違いだった。そう、今日の僕は生まれて初めて、女の子と二人きりで旅行する。
休憩所でお手洗いを済ませた後、せっかくだからということで、併存している施設を見学することにした。ドキドキした。僕は若い女性と公の場で二人きりになるところを、周りはどう見ているのだろう。
館内には、大きな山車や神輿が、また、巷では見ない琥珀も飾られており、二階には、昔、流行った玩具が飾られている。でも、僕はそれらを集中してみることは出来なかった。
ナツミさんの反応がどうしても気になるからだ。君の横顔を気になって仕方がない。僕はナツミさんが集中して物を見たり、時折、微笑んだりする姿を見ては安堵した。
「私の両親も、この玩具で遊んだのかな」そんな彼女の些細な呟き一つ一つが、僕の心の中の水面に喜びの波紋を広げる。波立った思いが、ナツミさんに伝わるのではないか。いつの間にか、僕は平穏が保てなくなっていた。
けれど、そんな不安定な感情も車の中では鳴りを潜めた。赤い枠のおかげなのだろうか。とにかく、荷台者は走った。枯れた森の大地に、雪が積もっており、そんな景色を見ながら、除雪された道路をつらつらと進んだ。周りの雪が深くなるにつれて、車も人も見かけなくなっていく。ナツミさんは曲道で車を一旦停止した際、懐から一枚のツメミクジを取り出し、僕に渡した。
「これ、アリサちゃんからコトブキ君に返してあげてって」
中身を見ると渡したはずのツメミクジだった。せっかく渡したのに要らないということなのだろうか。少し機嫌が悪くなる。
「アリサちゃんは、幸せは自分で手に入れたいって言っていたよ。だから、次に会うときは、それを持っていて欲しいとね」
そう言うとアクセルを踏み、車は再び動き出した。
僕は隣の運転手の顔を見た。口元が明らかに上ずっていることが。横からでも確認できた。
「ナツミさん、なにかえらく御機嫌ですね」
「だって、コトブキ君とアリサちゃん、私はお似合いだと思うもん」
意外な言葉だった。僕には全くそう思えなかったからだ。
「そうですか、結構、正反対の性格だと思いますけど」
「そこが良いところだよ。足りない部分を補いあえるから、恋人って素敵なものだと思う。ほら、アリサちゃん可愛いから、コトブキ君どんどんアタックしなくちゃ」
「そんなこと、言われても」
「休みが取りたいなら言ってね。私、全力で協力するから。フフッ、二人は赤い糸で結ばれているよ」
乗り心地はずっと変わらないけれど、操縦する彼女は、宝物を見つけた少女のように目を輝かせていた。僕は、ナツミさんがそんな風に幸せにしてくれるのなら、それでもかまわないと思う。けれど、出来る事なら、隣にいる人と共に生きる未来が、僕の横にいる事を至高の喜びと感じ、笑ってくれるナツミさんがいてくれたら。それは望みすぎなのだろうか。しかし、それ以上の望みもまた、無いような気がする。
小春日和の空の下、駐車場から降りたナツミさんが、積もった雪に手を伸ばす。雪をくるくると丸めて「雪の子だよ」と、おどける。黒いズボンに包まれた、少し大きめなお尻が揺れた。一瞬の喜びを、その小さな体で最大限に表わす彼女が、僕は好きだった。
雪の積もった道をサクサクと音を鳴らし、木製の門を抜けると、お屋敷が目に入った。庭には美しい梅の花が咲いていて、その奥に黒い屋根瓦と白い漆喰の壁でできた建物が建っている。引き戸を開けると、玄関が少し薄暗いのが気になった。靴箱に靴を入れるとき、ナツミさんが小声で話しかける。
「そうだ、今日は全部、コトブキ君に引っ張ってもらおうかな。お金は渡すから、支払いとか全部頼んでもいい」
「大丈夫ですよ。了解です」
あのナツミさんが、僕を頼ってくれている。心が舞い上がりそうになった。だが、受付で二人分の支払いをする僕を、不思議そうに見る女将の顔。きっと二人は相当、不釣り合いに見えるのだろう。これが真実だ。用意周到で他人の幸福を美徳とする彼女の事だ。きっと、アリサとのデートの練習ぐらいに考えているのではないか。いや、難しく考えてないだろうか。せっかくの休日を、二人の時間を卑屈に塗りつぶしたくはない。では、何故そんな風に思ってしまうのだろうか。
併設された食堂で、僕らは先にお昼を食べる事にした。
「天ぷらそばを二つ。一つは大盛で」
「お兄さん、そんなに食べるのですか。結構、量ありますよ」
「大丈夫です。大盛でお願いします」
待っている間、僕は辺りを見渡した。絢爛な金屏風には富士山の絵が描かれ、新調された奇麗な畳からは、清々しい香りがして心が落ち着いた。けれども、ここまでに来るまでの間、誰一人として僕ら以外のお客を見かけない。
「ナツミさんはこちらに良く来られるのですか」
「子供の頃にね。母と弟と祖父と祖母と、家族みんなで行っていたよ」
「あまり、僕ら以外にはお客を見かけないのですか。いつもこんな感じなのですか」
「昔はもう少し人がいたと思うけどね。まあ、今となっては隠れ家みたいなものなのかな」
確かに、二人きりの時間を過ごすには都合がよかった。注文表に載っている天ぷらの写真を見ながら、美味しそうだねと何気なくささやき合う。和室の窓から、差し込む木漏れ日が僕らを祝福しているようだった。喧噪から離れた二人の時間は、隠された楽園に等しかった。
若い旦那が天ぷらそばを運んでくる。蒸篭に載せられた蕎麦を箸ですくい、茶褐色にくすんだつゆに付けた。そのまま、ズルズルとすする。パツパツとした歯切れのよい食感が心地よい。その後から来る、鰹節と椎茸の凝縮された旨味が、喉元にじんわりと刺激を与えた。天ぷらはサクサクとした衣が纏わっているが、決して脂っこいわけではない。そのおかげで南瓜の濃厚な甘味や、春菊の苦みがしっかりと伝わる。食べ終わると、色映えの良い器の朱色が、満腹感の余韻を引き立ててくれた。
昼食を取った後は、お待ちかねの温泉へと向かう。男と女の仕切りでナツミさんと別れる。少し名残惜しいが、温泉への期待感は消えるわけではない。服を脱ぎ、扉を開けると、湯けむりの世界が広がっている。
はやる気持ちを抑え、まずはシャワーで体を洗う。次に室内のお風呂に入浴した。温泉は僕一人だけの貸し切り状態だった。水の跳ねる反響音。少し上のライトが眩しい。そして、露天風呂だ。扉を開けた瞬間、縮こまるような寒さが僕を襲った。速やかに石貼りの床を進み、お湯に浸かる。本当に温かい。美しい雪見風呂だった。
白い雪の中に猫がひっそりと身を隠している。白い毛先がぶるぶると震えて寒そうだ。そこで、近くにある丸い湯桶を取り、その中に少しだけお湯を入れる。猫はこちらに近づいたので、湯桶の中に入れてあげた。温泉の水にぷかぷかと船のように浮かぶ湯桶。中の猫に顔を近づけると舌を出してぺろぺろと舐めだした。舌の表面がザラザラしているせいで、擦れると少し痛い。しかも、猫は尚も、鼻を中心に顔を舐めてくる。そこで僕は言葉の通じないであろう生物に忠告する。
「そんなに美味しくないぞ」
そう言って湯桶に猫を戻す。すると猫はにんまりと目を細くし、ご満悦といった表情をする。その顔を見て、僕は笑った時のナツミさんを思い出した。そして、僕は思わず呼びかけてしまった。
「ナツミさん」
猫はニャーと答えてくれたが、塀の向こうが女湯であることを思い出し、僕は顔を赤くした。
あまり、長くいるとナツミさんを待たせることになる。猫を湯桶から出すと、するすると物陰に隠れてしまった。僕は脱衣所に戻った。
脱衣所で服を着替え終えた時。突然、辺り一面が真っ暗になった。停電だろうか。素っ裸でないことは幸いだが、周りを見渡しても暗くてどこがどうなっているのか分からない。
しかし、すぐに出口のほうから、提灯を持った男の子がこちらへと歩いてきた。鉄紺色の着物がかすれて、微かに音を立てる。背丈は僕の三分の二ほどしかない。五、六歳くらいだろうか。ちょっと怒っているようにみえるが。頬を膨らましている様子がいたく、可愛らしい。
「君のせいで停電になってしまったではないか」
意味の分からないことを言われて、思わず、どういうことか、と聞き返してしまった。
「ここは普通の温泉じゃないのだよ。そういう風にお客さんも感じないか」
確かに、ずっと、僕一人なのも変な気がする。いくら、過疎化が進んでいたとしても、地域の人が何人かいてもいいのかもしれない。それに、猫が露天風呂から出てくることも不思議な気がした。しかし、この停電が僕のせいであることのつながりはないように思えた。
「心に迷いを抱えているから、真っ暗になっているのだ」
「心って、僕の心の事が」
「そうだよ。では占って進ぜようか」
男の子は一枚の紙切れを取り出した。見たことのある五角形をしていた。
「ツメミクジじゃないか」
「そうだよ、ということは、君はナツミさまの知り合いなのか」
「ええ、緋の森神社でナツミさんと一緒に仕事をしている」
「そうかそうか、僕もナツミさまとは昔からのともだちだよ」
昔からということは、彼は小人症なのだろうか。しかし、声は高く、どう考えても子供のようにしか感じられない。
「ほら、早く解いてみてよ」
*詰将棋6*
見ると玉の周りには銀と歩三枚が包まれるようにして置かれている。不思議なのは玉の後ろに銀二枚が横にして並んでいる事だ。持ち駒は飛車と銀だが、後ろから打たれないようにするためか。ともかく解いてみる事にした。
有効な初手は一つしかないように見える。それに対する応手も一つだ。この次の手を見つけるのに時間がかかった。けれども、ここを凌ぐことで答えはすらすらと理解できる。僕は手順を少年に説明した。
「どう、感じた」
「何かもどかしい感じがする。飛車が何度も王手をかけているのに、玉はそのたびにするりとかわしているのがね」
「その飛車が君だよ。もしかして、いるでしょう。近くに居るのに、届きそうで届かない人が」
僕はナツミさんを思った。ほぼ、半年ほど過ごしている。おでこに接吻してもらうこともあった。でも、それからの僕に対しての付き合い方は変わらないように感じられる。にもかかわらず、僕は最近、ナツミさんを見るたびにそわそわする。目を向いて話す事が、たまに恥ずかしくなる。すると、小僧は僕の心を見透かすように、こう言った。
「君はその人に、恋をしているのだよ」
「そ、そんな。僕とナ、ナツミさんがそんな、そんな事ないよ」
「いいや、僕の目は誤魔化せないよ。それに大事なのは、君はその人の事をもっと知りたいとも思っている」
「た、確かに。知りたい」
確かに、僕が緋の森神社で勤務する前から、彼女は生活していたはずだ。それも、一人ぼっちで。そんな孤独な世界で、彼女はどのように過ごしていたのだろう。そんなことを寝る前に考えるようになっていた。ナツミさんは自分の過去をあまり話したがらない。
「兄妹や姉弟で恋心を抱く話は聞かないだろう。それは、物心つくときから、一緒にいるからだね。良い所も悪い所も知っている。だから、知りたいなんていう感情は湧かないはずだ」
少年はまくしたてる。
「であるならば、とても、愛しい人がいて、その見えない心や、過去の出来事を知りたい。そう、思った時、恋がはじまるのだよ」
ああ、確かにそうかもしれない。もう、僕の頭からナツミさんが離れなくなっている。
「でも君は、彼女に首っ丈になって、本能に溺れないよう、気を付けるべきだよ」
少年は、じっと睨みつけるように僕を見た。何か試されているかのように感じた。
「特に匂いには気を付けた方が良いよ。五感の中で、嗅覚だけは理性が効かないからね」
僕は今の言葉を肝に銘じることにした。
「ほら、そろそろ、明るい世界が見えてくるよ」
そう言うと、提灯の光が消え、辺りが再び、真っ暗になった。その後、館内の照明が点灯し、元の脱衣所がそこにはあった。けれども、そこに少年の姿は無かった。僕はそこから出ると、ナツミさんが湿った髪をたなびかせ、僕に微笑みかけてくれた。いつもの日常の風景が戻った。
車の中で僕は、館で出会った不思議な少年の事について話した。
「それは、座敷わらしじゃないかな」
「座敷わらし、って何ですか」
「コトブキ君は聞いたことないかな。この地方には、普段は隠れているけど、たまにこっそりと顔を出す、着物を着た子供が現れる話。よく見ると、昔、死んだ子供にそっくりらしい」
「そ、それって要は、幽霊や妖怪ってことじゃないですか。なんか、怖くないですか」
「そうかなぁ。可愛いと思うけど。私も子供の頃、よく遊んだなぁ」
ナツミさんはしみじみと語るのだった。
帰りに尋ねた休憩所では、上半身が梟で下半身が人間の、謎の生物の銅像が建っていた。僕は気持ち悪いと感じたが、ナツミさんはしきりに可愛い可愛い、と嬉しそうにしていた。この怪鳥は人の心を読むことや、未来を予知できるらしい。
ならば、僕は聞いてみたかった。この先どうやって生きれば、幸せになれるのかを。出来れば、隣にいる人物も共に。
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