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【完結】詰将棋と緋色の恋  作者: フクダ アキヒロ
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4 成り捨てと白色の雪

評価ページの下にコトブキ君の解いた詰将棋のリンクがあります。本章は「詰将棋4」です。ご参照ください。

 厳しい寒さの中に、穏やかな晴れ間が広がる。冬至の翌日にあたる今日は、気持ちの良い朝日から始まった。神社は年末年始の準備で大忙しだった。その中でナツミさんが気分転換にと、こたつ列車を紹介してくれた。僕はかねてより、この雄大な土地の様々な景色を見てみたいと思っていたため、絶好の機会だ。外套を着用し、外出用の小さな鞄を持って外に出る。境内では掃除をしていたナツミさんが手を振って挨拶してくれた。

「コトブキ君、午後から雨が降るらしいから気を付けて下さいね」

「折り畳み傘を持っているので、降ったら使おうと思います」

「楽しんできてね、いってらっしゃい」


 笑顔のナツミさんを後にして、僕は霜柱が立つ山道を跳ねるように下った。霜柱は踏むとサクサクと音が鳴り、心地いい。停留所でバスに乗り、駅へと向かう。たくさんの観光客と共に待っていると、紫色の列車が現れる。車体には金色の線が入っており、格式の高い雰囲気だ。人々は歓声を上げ、写真を撮ったりしていた。

 車内に入ると豪華な内装が出迎えてくれた。足を進ませると、灯油の香りがふわりと薫る。僕は車内がお座敷席とばかりに思っていたが、見るとダマスク柄の深紅の座席が向かい合っている。その真ん中に、翠色の布が掛かった机が置いてあった。足を入れると温かい。布の下には布団が掛かっているので、これがこたつのようだ。腰かけて足を温められ、乗り心地もよさそうだ。暫くすると、列車は動き、野山を縫うように進んでいった。


 牛乳瓶の中には海の幸が詰まっていた。僕の今日の昼食だ。硝子が光を反射し、赤や緑の具材が宝石のように輝いている。これを重箱の中のご飯に盛り付けて頂く。瓶を逆さにして海産物を取り出すと、白米の上に磯の香りが広がった。新鮮な雲丹は濃厚にとろけ、いくらは塩辛くもプチプチと口の中で弾ける。一緒についてきた磯汁も、喉をするりと通り抜けた。

 大変満足な昼食だった。豊穣な海の恵みを、五感で感じられることは素晴らしい。食事後の独特な眠気に体を任せる。こたつに座り、広い窓を見渡せば、連なる枯れ木が順々にそびえたつ。老いてなお、逞しく寒さに耐える木々は、僕に力強く生きる気力を漲らせる。隣の席からは、子連れの家族のにぎやかな会話が聞こえてきた。車内はゆったりと時間が流れていた。


 やがて、列車は海岸沿いを走りだす。防風林の影から、海がちらちらと見えてきた。少し、空の雲に灰色が混じっていたが、海は冬の小さな陽光を集め、紺青の体を煌めかせていた。ああ、なんて雄大な景色だろう。目前には、ただ静かな、穏やかな大海原がある。

 だが、トンネルをくぐると、海は消えて渓流の景色に変わっていた。次の駅で降りなければいけない。大きな海とこたつの温もりから離れるのは、とても名残惜しかった。心半ばに列車を降りる。

「お兄ちゃん、落としたよ」

 突然、後ろから声を掛けられたので、振り返ると、先程まで隣に座っていた家族の男の子だった。青い鞄を背負いながら、僕の傍へ寄り、紙切れを渡す。僕はそれを受け取り、ありがとうと感謝の意を伝えた。男の子は頷き、鍔付の帽子に手を当ててから、家族の元へ走り去っていった。


 乗り換えの間、一時間以上も時間があった。僕は改札を出て、川沿いの大道路を歩く。途中、大きなトラックが何台も、忙しそうに僕を置き去りにしていった。河口近くの橋を渡ると、物々しい暗い海が見えた。

 港には、クレーンやコンクリートの壁がそびえ立ち、そうした高さのある人工物が黒い影を作る。塩辛い海の匂いに、なにか苦い物が混じっている。空は分厚い雲が連なっていて、コンクリートの港は、辺り一面が灰色に包まれていた。頭に小さな濡れた感触があった。ぽつぽつと雨が降り始めてきた。仕方なく、折りたたみ傘を取り出し、僕は駅へと戻ることにした。


 駅の構内の待ち合わせ室は三人ほど座っていたため、仕方なく外で待つことにした。自動販売機の近くで冷たいお茶を買い、乗車位置の近くの椅子に腰かける。

 僕は、子供から渡された紙切れを懐から取り出す。その紙切れは将棋駒の形をしていた。ツメミクジであることに瞬時に気づいた。開いてみると解いた記憶がない問題だった。いつから持っていたのだろうか。素朴な疑問が頭を掛けたが、とりあえず解いてみることにする。


*詰将棋4*


 まず、気づいたことは攻め方の持ち駒が無いことだ。本では何回か見たことがあったが、ツメミクジでは初めてだった。ただ、盤面の攻め駒は強力だ。玉の隣に角と飛車が置かれている。空き王手が出来る形だ。さらに下には馬までいた。歩も二枚ある。

 一方、玉型は桂と歩しか無かった。やはり角を動かし、雲の隙間から漏れ出る晴れ間のように、飛車の利きを当てるのが初手だと思っていた。しかし、どうしても詰まない。少し考えた後、正解に辿りついた。


 それは、勇ましい駒の前進から、最後は二枚の大駒を中心に玉が詰む、壮大な物語だった。僕は過去にナツミさんが、ツメミクジは何かの願いや悩みが無い限り意味を持たない、と言っていた事を思い出す。だから、この詰み将棋はただの作品なのだろう。だが、何故だろうか。その時の僕には、前進しながら玉に取られてしまう駒たちが、無性に儚く感じた。


 このあとの予定は、改札を出ずに神社の駅まで戻ることになっていた。今、乗り込んだ快速列車は、内陸に向かって、いくつかの峠を越える。そして、平野を北進し、この地方でも大きい駅にたどり着く。その駅は神社に来るときに利用した駅だった。そこで夕食を取り、神社の港町へ向け、山々を超える。要するに一周するわけだ。

 列車はいくつものトンネルを抜けていった。山の中も薄暗く、退屈さを感じた。辺りは、田舎の学生や若い恋人たちが、楽しそうにお喋りをしていた。これが、また僕に孤独感を与える。


 思えば、ずっと一人だった。何故だか分からないが、僕は五歳の頃まで、言葉を発しない無口な子供だったようだ。おそらく、喘息持ちの弱い体のせいだろう。僕の生まれ育った場所は工場が多く、空気がきれいとは言い難い場所だった。声を出す事どころか、呼吸さえ息苦しい。

 両親は息子に健康的に育ってほしいと、サッカーを習わせることにした。けれども、僕はドリブルをすればボールに走らされ、呼吸がゼエゼエとなる。パスでボールを受ければ、失敗して弾き、また走らなければならない。そうしている間に、よろけて転ぶこともあった。痛いし苦しい。何故こんな事をやらなければならないのだろうか。


 それなのに、僕のクラスメイトは元気にサッカーの練習に励み、友達を作って楽しげにしていた。辛いのは自分だけであり、誰も理解してくれない。それが一番許せなかった。不満に満ちた幼子は、試合当日、目指すべき方向とは反対側のゴールにボールを蹴り、観戦していた両親を呆れさせた。結局、コーチと相談したうえで倶楽部を辞める事になった。

 小学校に入学してからは気楽で楽しい日々だったと思う。休み時間になると、絵を描いたり、外に出て花を眺めたりした。他の男の子が鬼ごっこ等を興じるさなか、体が細く視力も弱い僕は、そこに加わることは滅多にない。

 それが祟ってしまったのだろう。運動会や体育の授業では、活躍する生徒を僕は見ている事しかできなかった。実際に恰好よかったし、女の子の黄色い歓声も羨ましい。それに引き換え、僕はかけっこで最下位は当たり前。団体競技では足を引っ張り、侮蔑の対象にされる。同じ人間なのだから、努力をすれば追いつけるはずだ。悔しさを胸に、中学に上がった僕は、ある冒険をする。


 それは野球部に入部する事だった。地域の倶楽部で野球をしてきた腕白な少年に揉まれて、団体競技に挑戦する。そうすれば、違った景色を見ることができるのではないかと考えた。入部体験では小学校から上がってきた同級生達から、異様な目で見られた。周りは面白がったが僕は黙々と練習に取り組んだ。しかし、いくら練習しても上手くならなかった。練習試合にも出してもらえず、声が小さい事など、ことあるたびに怒られた。

 そして、学年が上がるころに僕は退部届を出した。今まで練習を取り組んできた部員とは、気まずさだけが残った。僕は放課後、逃げるように帰らなくてはならなかった。誰かに話しかけられるのが嫌で、休み時間は寝ている振りをした。そんな中、僕は小説と出会う。


 中学二年生の冬の頃だった。試験勉強にやる気が出ず、環境を変えるため、図書館の自習室で勉強してみることにした。それでも、僕はやる気が起きず、図書館の本棚をだらだらと眺めていた。

 そんな時、映画化で話題になっている題名の本を見つけ、気分転換に読んでみることにした。とても面白かった。見事にのめりこんだ。


 まず、小説の登場人物は僕を責めたりしない。これはアニメや漫画も同じではあるが、小説は学校にも持ち込める。読むだけで人のつながりを感じ、知らない世界を教えてくれる。

 退屈な休み時間の問題を解決してくれた。自分一人でいる孤独を解消させてくれた。だが、小説も時に人の三次元での繋がりを生じさせようとすることがある。僕が高校生の時だった。


 きっかけは、学校の図書室で、ある女の子が本を返した時だ。彼女は僕と同じクラスメイトで水泳部員だった。返された本は背徳的な不倫小説で、優秀で模範とされた女子高生が、幼馴染と恋愛する影で、家族持ちの中年男性と性愛を含めた付き合いをする物語だ。恋人や家族を傷つけるたびに、少女は自責の念に駆られるのだが、男の悪い誘いに我慢できず、乗ってしまう。

 僕は、小説には性行為の書かれたものが、意外と多く存在することを知っていた。僕が初めて性を知ったのも、小説からだった。だが、この作品は僕が読んだ中でも、かなり過激な情事が描かれていた。

 この小説を読んだ同級生は、体育会系の陽気な女子集団に属していたが、その中で一番しおらしい印象があった。そして、彼女は優しくもあり、閉鎖的な付き合いをする僕のような異性に対しても、偏見を持たずに接してくれる人だ。


 僕も彼女と同じ、水泳部に所属していた。けれども、それは入学時に先輩の熱烈な歓迎に断れなかったためだ。おかげで、気が向いたときにしか行かない幽霊部員になってしまっていた。そんな僕が珍しく部活に出たが、ゴーグルを忘れてしまう。泳ぐことは出来たが、型が崩れてしまい苦しい。

 それを見かねた彼女が、自分のゴーグルを貸してくれたことがある。一回断ったのだが、せっかく来てくれたのだから、と笑顔で渡してくれた。こんな天真爛漫な、穢れを知らない乙女が、あんな過激で背徳的な小説を読む事があるとは。僕は彼女を意識せずにはいられなかった。


 けれども、彼女と話すことはそれ以降、無かった。それは、僕に社交性が無かったからだ。もしも、普段、喋らない人間が口を開けば、何か思惑があると周りが考える。僕にはそれが分かっていた。彼女を傷つけるかもしれない。そう思い、臆病になった。だからこそ、きっかけが欲しかった。けれども、残念ながらそれは訪れてこない。


 ただ、眺めているだけだった。教室で、廊下で、プールで。放課後の部活動で、彼女の体が夕日に照らされる。小麦色の腕が水を捉え、絡んでいく。うねるように進む肉体が、光に反射され、情緒的な光景を作りだしていた。

 塩素臭のする液体の中で、彼女は一体なにを考えて泳いでいるのだろうか。あの本を読んだとき、彼女は主人公に対して、どう思ったのだろうか。僕としては、主人公に対して否定的な感情を持ってほしかった。でも、それは分からない。


 クラスが変わり教室から離れ、感染症が流行して学校からも離れた。禍は僕の行く手を阻む壁となり、自分を責める道を塞いで楽にさせてくれた。だが、卒業と同時に、火口から噴き出る岩しょうのように、後悔の念がドロドロと頭の中を流れていった。


 列車は山の中を進む。灰色の空から雪が降り、森は白く覆われていた。車内には僕と服を何重にも着込んだ大柄の男性しかいない。先程の駅でたくさんの人が降りたのだろう。

 学生の頃はこうした一人旅が楽しく感じられた。普段の忌々しい学校という箱庭からの解放感。そして、初めて見る景色や、田舎に住む人々の生活感溢れる姿を知る歓びを、存分に味わえた。村里の民の心豊かな生活を想像し、それを将来の自分に重ねてみたりした。成長期の伸びていく体のように、人生は上に向かって進むものだと思っていた。

 しかし、今は好奇心よりも、本当にこんな旅をしている場合だろうか、といった焦燥感に駆られた。乗客の楽しげな会話を見ると、僕は永遠に一人で旅をするのではないかと不安になる。

 小説も同じだ。物語の中にある美しい初恋や、力強い若者の友情を知ったとしても、それが僕の経験として補われるわけではない。体験できたはずの青春を失ってしまった、虚しさだけが募る。そして、僕はそんな夢のような話が描ける下地を持つ、小説家にすら嫉妬した。僕の周りにある、何もかもが孤独感を助長させる。


 列車は駅に停車し、大男が降りていく。扉は閉まり、僕は一人残された。気が付くと僕はナツミさんの事を考えていた。壮大な大海原も、孤高の雪山も、独りで感動する事に飽き飽きしていた。僕の頭の中でナツミさんがはしゃいでいる。

「見て、銀世界だよ。雪がきらきら光って奇麗だね」

「本当ですね。きっと雪女が子供たちと遊んでいるのでしょう」

 僕の軽やかな冗談に、ナツミさんがクスクスと笑う。外の景色をうっとりと眺めていた彼女だったが、次第に物寂し気な表情へと変わっていった。少し心配になる。

「どうしたんですか」

「ごめんね、ちょっと感傷に浸っちゃって。雪はいつか解けるでしょ、私たちが一緒に入れる時間も永遠じゃないって考えると、切なくなってきて」


 そのとおりだった。この景色も、僕らの命も、ずっと続くものではない。だからこそ、一瞬一瞬が尊いのだろう。

 「確かにそれは悲しい事です。でも、そんな特別な時間をナツミさんと過ごせるのは、なんだか、ありがたいことですね」

 彼女は顔を赤くしながら、何か謙遜したような事を言うはずだった。小さな温もりを分かち合えると信じていた。


 けれども、僕の隣には誰も居なかった。窓に目を向けると、自然も建物も無い。ただ、広々とした雪原が、幾重にも続いている。分厚い雲が、雪の結晶の光を消し去っている。この無音の白く濁った空間が、僕に永遠の孤独を感じさせた。ああ、ナツミさん。僕は祈るばかりだった。


 終着駅は街の中心にあり、多くの人々で賑わっていた。西洋を中心に布教されている、世界宗教の神様の生誕祭が、三日後に行われる。その影響もあってか、普段よりも明るい雰囲気を感じる。しかし、その明るさは最早、独りぼっちの僕を嘲笑っているかのように感じられた。

 立ち食い蕎麦のお店で、温かい蕎麦を食べた。とても美味しかったが、僕は卓上にあった一味唐辛子を手に取って、蕎麦に振りかける。辛いのが好きというわけではない。ただ、刺激が欲しかった。世間からの絶縁と、そこからくる侘しさを、忘れるだけの痛みが必要だった。そうでなければ絶望で生命が朽ち果ててしまう。これは生存本能だ。

 唐辛子の辛みは口の中で炎と化し、僕の脳を熱くさせた。もう、あとは帰るだけだ。列車の中で一日の疲れがドッと出て、意識は座席の中で消えていった。


 僕はバスの扉を降りて外に出る。冷え切った夜の風に、思わず身震いがした。けれども、そんな凍えた夜にも関わらず、目の前に蛍のような淡い光が存在するのを確認した。こちらへと近づいてくる。

「コトブキ君」

 懐炉のような温かい声だった。

「ナツミさん。どうしてここに」

「遅くなっていたから心配しちゃった。ほら、外真っ暗だから」

 近づいてきたナツミさんの体から、柊の花のような、爽やかな甘い香りがする。

「すみません、ずっと待っていて寒かったじゃないですか」

「大丈夫、ちゃんと時刻表に合わせて来たからね」


 まさか、ナツミさんが僕の為に帰りを待っていてくれていたとは。提灯を持って歩く彼女は、橙色に照らされていて、なんだか妖艶な雰囲気を醸し出していた。黒い着物姿も似合っている。

 土に生える草は濡れていて、辺りには湿気が漂っている。この山にも雨が降っていたようだ。

「何か嬉しそうだね。旅行、楽しかったの」

「いや、久しぶりに誰かと一緒にいる事が出来て、気持ちが高揚しているだけです。ずっと独りで旅をしていたのですから」

 ナツミさんといるだけで、こんなにも温かい気持ちになれる。


「今日はお風呂入らなくて大丈夫なの」

 僕の部屋にきたナツミさんが尋ねる。

「もう遅いので寝ます」

「そうだね、明日も早いし今日はそのほうがいいよ。おやすみなさい、コトブキ君」

「おやすみなさい、ナツミさん」

 そう言うと、彼女は部屋の電気を消してくれる。そして、襖の擦れる音を聞くはずだった。しかし、この日は違っていた。


 突然、僕の額の上に、柔らかい感触の何かが、押し付けられるのを感じた。わらび餅の生地に熱を加えたような、と言えばいいのだろうか。それは天使のくちづけだった。柔らかい唇が触れた瞬間、頭に熱が灯り、首、胸、腰、膝と体全体に伝わっていくのが分かる。一面の黄色い菜の花畑や、満開の薄い桃色の桜並木。それから、川のせせらぎ、鳥のさえずり。春の伊吹が体の中を駆け巡っていた。


 その夜、夢を見た。僕はその時、人込みの中をはぐれないように、必死に家族の背中を追っていた。けれども、沢山の出店から漂ってくる甘い匂いや、歩いている人々の雑音に気を取られて、気が付くと迷子になっていた。

 一生懸命探そうとするも、黒いコートや赤い着物に視界が遮られる。お父さん、お母さん、どこだろう。不安が募って、胸が締め付けられていく。その時、道の端で小さな女の子がメソメソと泣いているのを見つけた。僕は泣きたい気持ちをこらえ、その女の子にどうしたの、と話しかけた。彼女は親とはぐれちゃったの、と答えた。


 僕は近くの出店の列に並び、軽目焼きを一つ買った。お金はおじいちゃんとおばあちゃんからもらったお年玉だった。女の子のもとに戻って、二つに分けて差し出す。少女は鼻声になりながら、ありがとう、と言って受け取った。

 初めは涙で鼻を赤くしていた女の子だったが、甘い味に舌を慣らしていくにつれて、徐々に平静を取り戻していった。僕も軽目焼きを食べながら、女の子のほうを見る。同い年ぐらいだろうか。端麗な顔立ちをしていて、桃色の靴には、擬人化された可愛らしい猫の絵が刺繍されていた。お菓子を食べ終わると少女は自分の事について喋りはじめた。


 はぐれた弟を探していたら、自分が迷子になってしまった事。近々、お母さんの実家に引っ越すこと。そうすると、お父さんと弟と離れ離れになって暮らさないといけない事。僕は離婚という言葉を知らなかったが、もう父親や弟と会えないのは、とてもかわいそうだなと思った。

 自分も春から小学生に上がる。だけど、幼稚園の優しい先生やクラスメイトと別れないといけないと考えると、すごく寂しいと感じてしまう。彼女の祖父の家は、ここよりも、もっと寒い所らしい。そんなことを話していると、上から聞き覚えのある声が降ってきた。近所に住んでいる僕の叔父さんだった。


 僕は事情を説明すると、彼は携帯電話を使って、僕の家族に連絡を取った。そして、近くで誘導している係員に、迷子の女の子を案内してもらうように頼んだ。手際よく問題を解決する姿に、僕も早く大人になりたいと思った。

 少女はありがとう、と言いながら、笑顔を振りまいて雑踏に消えていく。その日、少年は生まれて初めて、誰かのために生きる事の尊さを知った。


 ああ、そうだ。僕はいつか、貧困に苦しむ人や悲しみに暮れる人を助けたい。親を失った子供に笑顔を与えたいと、そう思って生きていた。

 今は、どうだろうか。自分の立場を築く事すらできず、むしろ、ナツミさんのような、親のいない孤独な少女に助けられている。それは予測してなかった未来であり、不本意な現実だった。


最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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また、感想や誤字脱字など間違いの指摘も受け付けています。

宜しくお願い致します。



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