3 雪隠詰めと銀色の月
評価ページの下にコトブキ君の解いた詰将棋のリンクがあります。本章は「詰将棋3」です。ご参照ください。
外は寒々しい北風が吹き、落ちている葉っぱや小さな木の枝を転がしていた。霜月に入り、受付での業務作業が増えた。それは、七五三や正月で扱う、縁起物などの受け取りと検品が主な作業だ。仕事量が増えることは、このときのぼくにとって、ありがたい事だった。
作業に没頭することで、二人の距離感を考えなくて済む。すなわち、ナツミさんに軽蔑の視線を向けられるのではないか、といった不安を忘れる事が出来た。けれども、隙が生じればいつだって、卑屈な思考が顔を出す。
どうせ、心の中では、汚い獣ぐらいに思われているのだろう。僕のいる前では、黙って我慢しているのだろうけど、結局は町中に言いふらしているに違いない。そうして、誰か別の人を雇って、僕をここから追い出すのだろう。
僕は、住み込みで働くと決めた自分が憎い。ずっと、一緒にいるということは関係が悪くなっても、逃げられないということだった。まるで、今の住居など監獄に等しい。監視員が出かけている勤務時間だけが、安息できる。ナツミさんが帰ってくる事を考えるだけで、僕の心は憂鬱になった。
霜月の第三土曜日は、着物を着た女の子と、袴を着た男の子で賑わっていた。七五三の季節だ。子供たちの今までの健康への感謝と、さらなる成長を祈願する。両親に囲まれ幼子達は、晴れの舞台に元気はつらつと言った具合だった。
境内は子供らを祝福するかのような、優しい日差しが降り注いでいる。見上げれば、雲一つない青空が広がっていて、希望ある未来を約束するかのようだった。険しい男坂を上って、神社まで来てくれたのだから、たくましく成長するに違いない。僕はそのように思った。
御祈祷は一日に午前と午後の二回に分かれている。それまで子供たちは、参道や本殿の前で、家族と記念撮影などをして過ごしていた。
時間になると、ナツミさんの案内で社殿の中へと入っていく。すると、参道の辺りから賑わいが消えた。社殿の中では彼女が御祈祷を行っているが、僕は受付にいるため、立ち入ることが出来ない。僕は孤独感を感じずにはいられなかった。
午後の祈祷が終わり、辺りに子供の賑わいが戻る。受付で千歳飴を頼み、化粧袋から取り出して美味しそうに舐めていた。小さい頃の僕は、まだ世界が美しく見えていただろう。少なくとも、優しい両親が築く温かい家庭の中で育てられ、冷たい世間のすきま風に飛ばされないよう、守られていた。
きっと、ここに居る子供たちもそうなのだと思う。僕は将来、息子や娘に同じことをさせられているだろうか。ふと、感傷的な気持ちになった。
いつの間にか、子供たちもいなくなり、夕日は山のふもとへと沈もうとしていた。急に、肌寒くなる。僕は受付の中の暖房に電源を入れる。
夕闇の中から一人の男性がやってきた。彼は紺のスーツを着ており、僕と同じように眼鏡を掛けていた。年は三十後半ぐらいだろうか。見ると、すごく悲しげな表情をしている。少し心配になり、おもわず声をかけてしまった。
「あの、どうかなされましたか」
「いやぁ、ちょっとね」
彼は、ちょっとだけためらい、考え込んだ。だが、意を決したとばかりに一気に喋りはじめた。
それは、こういった話だった。男には妻と娘がいた。喧嘩をすることもなく、三人で仲良く暮らしていた。しかし、ある日、彼の勤めている会社から辞表宣告を受ける。それは予期せぬことだった。
彼は一生懸命、転職先を探したが見つからない。ついには愛想をつかされ、妻は娘を連れて、黙って出て行ってしまったようだ。
彼には未練があった。ちょうど、四年前のこの日も、三人で一緒にお参りにきてくれたそうだ。だから、もしかしたらと思い、訪ねてみたということだった。
「申し訳ないね、情けない姿を見せてしまって」
僕は何とかしてあげたいと思った。ふと辺りを見ると、ツメミクジの箱がある。僕は帰ろうとしていた彼の背中に声をかけた。
「あの、良かったら、このおみくじ引いてみませんか。良かったら道が開けるかもしれませんよ」
「詰将棋のおみくじですか。そういえば、前に来た時も引いた記憶があります。折角ですし、ちょっと試してみますか」
彼は、僕の好意を買ってくれた。購入したおみくじを開くといつものように詰将棋の図が出てくる。だが、今回の詰将棋は十一手詰み。かなり難しそうだ。
*詰将棋3*
まず、盤上には攻め方の駒が二枚しかない。それも両方とも前に一マスしか進めない歩兵だ。ただ、持ち駒を見ると、角行が二枚、金銀がそれぞれ一枚と豊富であった。しかも、盤上の守りの駒は、玉の逃げ場所を制限する岩壁となっている。歩を拠点にして、駒を上手く繋げれば簡単に詰むかもしれない。
とりあえず、玉の頭に捨て駒を打ち、おびき寄せ、歩の前から順々に駒を打っていく。だが、玉は泥鰌のように、前へ後ろへとぬるりぬるり、駒の隙をついて逃げていく。その動きは、もがいても掴めない、彼の心境を表わしているようだった。駒を打つ順番を変えても分からない。持ち駒の角、金、銀どれかがとどめの駒になるはずなのだが、検討が付かなかった。
「ああ、そうか」
突然、男がつぶやいた。灯りに照らされた表情は、吹っ切れたかのような戦士の顔になり、ありがとうと言って去っていった。答えは分からずじまいだったので、若干、もやもやしていたが、彼の憂いは解けたようで、安心した。
それと同時に、僕は彼のように戦い続ける事が出来るだろうかと思った。愛する者に去られた悲しみと憎しみに、打ちのめされない屈強な心をうらやましい。それは僕の中では、永遠に手に入らない資質のように感じた。
その日の夜の事だ。僕はお風呂から上がり、寝る支度をしていた。すると、縁側のほうで何やらパチパチと音がする。窓を引いて縁側に出る。暗闇の中に橙色にゆらめく炎が目に入った。そして、その隣に臙脂色の着物を着たナツミさんが、しゃがみこんでいた。彼女のそばには、水を入れたバケツが置いてあった。
「ごめん、起こしちゃったかな」
「いえ、フジサワさんはここで何をしているのですか」
「月を見ようかなって思ってね、今日みたいに天気が良くて、空気が透き通った日には星空がはっきりと見えるから」
そうして、彼女はしなやかに腕を伸ばし、手招きをして誘った。
「ねえ、お月様きれいだよ。一緒にみようよ」
縁側から眺めた満月は、得体の知れない怪物のよう見えた。夜空は濁りのない黒に染められ、そこにあるはずの星々は、月のきらめきで消されている。そして、凍てつく大地には月光だけが、銀色に禍々しく輝いていた。
ナツミさんが僕の就寝部屋からやってくる。月明りに映った彼女の肌は、白百合のように透き通っていた。手にお湯の入った湯たんぽを持っていた。
「寒いでしょう。きっと、明日は霜が降りるね。今日から、これを使って寝るといいよ」
「すみません、ありがとうございます。ところで、フジサワさんは和服一枚で寒くないですか」
「実はこの下に何枚も着込んでいるから平気。ほら、お正月にお巫女さんを見かけるでしょう。あれも白衣の下に何枚も着込んでいたりするから。風邪をひかないようにね」
足元の焚火がじっと見ていた。燃え盛る小さな音が、この日の夜の静けさを物語っている。
「カシワ君、今日は大変だったでしょ。少し疲れてない」
「大丈夫ですよ。元気な子供の姿を見ていると、こっちまで元気が貰えるものですね」
「分かるよ。普段、ほとんど静かだから、思わず張り切っちゃうよね。おかげで夜は寂しくなるけど」
楽し気な表情から一変、彼女は感傷に浸るようにつぶやく。
「小さい頃は、星ばかり眺めていてさ、きっと、今日は童心に戻りたくなったのかな」
僕はナツミさんを横目に見ながら思っていた。彼女とこうして親しく話すのはいつぶりだろう。いや、今日が初めてなのかもしれない。僕は思い切って聞いてみた。
「あの、フジサワさんの家族って今はどうしているのですか」
薄々、気になっていた事だった。僕が彼女の家族について知っていたのは、昔、ここには祖母が住んでいて、十年程前に亡くなった事だけだった。ナツミさんは風呂から上がると、いつも着物に着替えていて、僕が美しいですねと褒めた時に喋ってくれた。彼女の着物は全部、お祖母ちゃんの形見らしい。昨月の初めごろの出来事だった。
「祖父は介護施設に入居していて、時々、祈祷等の帰りに会っている。それで、それ以外の家族は」
少し間があった。僕はそれで彼女の家族の状況が何となく分かった。
「十年ほど前に亡くなっていて」
ナツミさんは今まで見せたことのない、暗い表情に胸が痛む。
「すみません、傷つけるような質問をしてしまって」
「カシワ君は悪くないよ。そうだ」
さきほどの悲しみを振り切るかのように、彼女は明るい顔をした。それから、手元にある袋から小包を取り出し、包まれていたものを、さっと口の中に入れた。
「何の味か当ててみて」
ナツミさんは悪戯っぽく笑う。子供が誰かを驚かそうとしているみたいだ。そうして、胸を弾ませた少女が、僕の鼻の先に唇を突き出してきた。牡丹色に艶っぽく光る唇が、鼻に触れそうで思わずドキドキした。そして、彼女は白い息を顔にめがけて、勢いよく吐く。口から出た空気は、僕の鼻孔を通り越し、すぐさま肺へと到達する。遅れて強烈な甘い匂いが、嗅覚を支配した。
「ニッキ飴ですね」
「正解。カシワ君も食べよう」
僕は手渡させた飴玉を口に入れ、頬張る。独特な甘い味だ。自分の顔に手をやるとべたべたしている。ナツミさんの吐いた息が溶けて、べったりと張り付いていた。その感触に思わず、ぞくぞくした。
普通、異物が体内に入ることに対して、人は嫌悪感を覚えるものだ。ましてや、他人の体内に入っていたものなら、なおさらだろう。だが、すぐそこにいる女の息は、違うものを感じた。
それは、背徳感を催す危険な興奮だった。彼女はそうした僕の不安定な欲情に気づいておらず、あっけらかんと月を見ている。
口の中の飴玉は唾液で溶け、みみっちい粒となったのを機に噛み砕いた。ナツミさんがこちらを向く。すだれ状の前髪が揺れ、さも本題とばかりに話を振ってくる。
「カシワ君は、ご両親にちゃんと連絡しているの」
「はい、休みの日に携帯で電話を入れています。あちらからかかってきますので。とはいえ最近は子の居ない生活に慣れたのか、あまり電話も来なくなりましたけど」
それを聞いて彼女は頷き、ふっと吐息を漏らす。夜空に白い煙が舞った。
「そうか、それなら良かった。悩み事があったら私にも言ってね。ずっと二人きりの生活だからさ」
僕はやっと、この月見を催したナツミさんの真意に気づいた。彼女に心配されていたのだ。軽蔑の目で見続けていたというのは、どうやら、僕の思い込みに過ぎなかった。
何と返事をしてよいのか分からずにいると、彼女は急に慌てだして、声をつなぐ。
「やっぱり、まだ何か困っている事があるのでしょう。料理が美味しくない。それとも、田舎の生活に飽きた。何でもいいからさ。ね、私は怒ったりしないから」
そして、泣きそうな声で尋ねられた。
「もしかして、私の事、嫌い」
「いっ、いえ、そんにゃ、そんなことはないですよ」
声が裏返る。全く思っていないことを問われ、驚いてしまった。
「フジサワさんは完璧ですよ。仕事も家事も全部しっかりこなしていますし、それに顔も立ち振る舞いも美しいじゃないですか」
ナツミさんの顔が牡丹の花のように赤くなった。僕も思わず、恥ずかしくなったが続ける。
「それにくらべて、僕は勉強も出来なきゃ運動神経だって無い。物覚えは悪いし、手先だって不器用。しかも、人と会話するのも苦手で、顔も不細工ときています。おまけに間抜けな事ばかりして人に迷惑ばかりかけてしまう。これじゃフジサワさんは嫌だろうなって」
「全く思ってないよ」
「いいえ、今はそうとしても、どこかで限界が来ますよ。こんなやつ雇わなければ良かったってね。今までがそうでしたから。よくこんな、何もかもダメダメで生きてこられたなって。僕なんかね、ずっと一人で生きていればいいのですよ。そうすれば、もっと世の中は良くなると思いますよ」
「私はカシワ君の事、気に入っているよ」
「どこがですか」
こんなけんか腰になるつもりはなかった。けれど、彼女と僕との人間としての出来不出来は、確実に存在する。それが、どうせ僕の気持ちは彼女には分からないだろうな、という思い込みと卑屈な態度へと変わってしまう。
「少なくとも、カシワ君の顔はかっこいいと思うよ。ほら、その鼻とか」
「この子守熊みたいな鼻が、ですか」
「いいじゃない子守熊、可愛いよ」
子守熊は僕の鼻を由来としたあだ名では、一番良い物だった。ナツミさんは僕の鼻に右手の指を触りはじめる。「何だか将棋の駒にも見えるなぁ」と言いながら、その指でこすったりつまんだりしていた。肉桂のねっとりとした甘い匂いが蘇り、鼻の先がくすぐったい。僕は反射的に目を細く瞑る。
「ふふっ、嫌だった」
「別に」
「それはそれとして、カシワ君、一人で生きていくのは辛いよ。寂しいよ。人間は弱い生き物だからね」
「そりゃあ、僕だって孤独は嫌ですよ」
「そうでしょう」
「でも、その、孤独にならなくて済むのは、あくまで周りの人に認められた者の特権でしょう。社会に必要とされるのは役に立つ人間だけですから」
「カシワ君だって、今にきっと、立派に必要とされる時が来るはずだから」
「そうですかね」
「ただコトブキ君は、居場所がまだ見つかってないだけだと思う。きっとそうだよ」
僕は詰将棋の事を考えた。駒には一見、意味のなさそうな所に置いてあるものがある。しかし、詰み手順を考えていくにつれて、玉の逃げ場所を塞いでいたり、複数の詰み筋を消していたり、とにかく何かしらの役割が与えられていた。
今の僕は、それらの駒をとてもうらやましく思っていた。僕には一体、どんな場所でどんな役割が与えられているのだろう。でもそれは自分で見つけ出さないといけないことでもあった。
「ごめんね、何かカシワ君を見ていると弟のことを思い出してさ、もっと甘えてよって、ついお世話したくなっちゃう」
「弟がいたのですか」
「そうだよ。落ち着きが無くて、手も焼くけど、寝顔がとっても可愛かったな」
長女は懐かしむように焚火を見つめながら言った。暗闇の中の炎は、砂漠の中で咲く一輪の花のように見えた。あの花はナツミさんの暗い孤独の中に、明るい灯を与えているのだろう。
「そうだ、せっかくだからさ、お互い下の名前で呼び合おうよ。ほら、私たち仕事の関係だけじゃないわけだし」
突然の提案に驚く僕を尻目に、彼女はバケツを火に向けてひっくり返す。ザアッと水がこぼれ落ち、炎が煙とともに消えていく。辺りが一段と静かになる。
バケツを持ったナツミさんは、拳に力を入れて、遠目から大きな声で呼びかけた。
「今度から私の事、ナツミさんって呼んでくださいね。コトブキ君」
彼女の勢いに押され、僕も大きな声で返した。
「はい、ナ、ナツミさん」
月明りの下でナツミさんが微笑む。霜夜に舞い降りた白い妖精は縁側に登ると、赤い振袖を揺らし、再び笑顔の結晶を僕に届けた。
「明日もよろしくお願いしますね。おやすみなさい、コトブキ君」
「おやすみなさい、ナツミさん」
彼女は一礼してから、後ろを振り向いて自室へと戻る。後ろ姿の着物には白い山茶花が鮮やかに描かれていた。
寝室の窓から、もう一度、空を見上げた。先程よりも高い所にある、初霜の夜の満月を見ながら、僕は思っていた。あたら夜は確かに存在するという事を。
明日が待ち遠しいのと同時に、あの月が恋しくなっていた。それは月明りの清廉さが、ナツミさんの優しい光が、何か魔法のようなもので出来ているように思えたからだ。
解けてほしくない。僕はそう祈り、静かに床に就いた。
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