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【完結】詰将棋と緋色の恋  作者: フクダ アキヒロ
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1 清涼詰めと黄金色の国

評価ページの下にコトブキ君の解いた詰将棋のリンクがあります。本章は「詰将棋1」です。ご参照ください。

 夜明け前。岬からは、薄暗い海が見えた。海は小さな細波を立て、微かながらも、水と水が摩擦し、泡がはじける音がする。暫くすると、一面が藍色だった空が水色へ、さらに淡紅色へと変化していく。

 やがて、水平線の彼方から、太陽が眩い光と共に顔を出した。それは「序章」という言葉を、体現するかのような、実に神々しい光景であった。


 かつて、この国の民族が一つしか無かった頃。この岬が、最も東に位置する場所だった。故に、この曙は、国の一日の始まりを告げる光でもある。その光が、岬を、港を、街を、畑を、森を包み込んでいく。

 森の中には一つ小高い山があり、そこに神社が建っている。緋色の社殿が朝日で照らされ、大地が黄金色に輝く時、船上の人々は、今日のご安航を祈った。


「おはようございます」

 僕はぼんやりした意識の中、懐に置いておいた縁が黒色の眼鏡を手に取る。そして、声のする方へ顔を向けた。かすんで見えた緋色と浅葱色の影が、和服の若い女性であると認識できた。

「夕べは、よく眠れましたか」

 僕は呼びかけに小さく頷き、傍にある時計を見た。起床予定の時間を三十分も超えている。動揺した僕と比べて、彼女の声は穏やかだった。


「気持ちよく寝ていた所、起こしてしまって申し訳ありません。そろそろ時間ですので、常装に着替えましょう。帯を結びますので袖を通したら、返事を下さい」

 彼女が後ろを向いたので、僕は急いで服を脱ぎ、置いてある衣服を取る。どうやら、白衣と無地の白袴のようだ。着替えたことを告げると、女はこちらを向いた。


 それから、帯を持ち、袴の着付けに取り掛かった。僕が直立している横で、彼女は膝立ちの姿勢のまま、帯を交差させていく。帯が前を通るたびに女の柔らかい腕や頬が、自分の腰に触れ、密着するので、僕は顔を赤くした。

 それにひきかえ、女は手際良く紐を結んでいく。慣れた手つきで何事もなく作業する彼女との比較が、僕の世間の不慣れさを浮き彫りにしているようで、より一層、恥ずかしさを感じさせた。


 着替えが終わり、外へ移動するため、彼女の後ろをついていく。畳の寝室を抜け、長い廊下を渡る。そして、玄関で草履に履き替える。

「普段、草履なんて履かないでしょう。先に履いて、感触を確かめてみて」

 僕は女の言葉に従い、その場で履いたまま足踏みをしてみた。地面の硬さが直に伝わり、足が少々痛く感じる。かかとを上げると脱げそうになった。慣れるまでに時間がかかるだろうか。

 ひととおりの運動を終え、彼女も草履を履く。女が腰をかがめた時、僕はずっと、言おうとしていたことを口に出した。


「あ、あのぉ、初日から寝坊してしまい、本当に申し訳ありません」

 彼女が驚いた顔をして、こちらを見上げた。その時、僕は初めて意識して彼女の顔を眺めた。端正な顔立ちに、美しい曲線を描いたつり目。そして、白い肌が大きな黒い瞳を強調させ、聡明な女性であることを物語らせた。


 けれど、彼女が目を横に閉じ、口元を緩ませると、小さな目鼻立ちの童顔であることに気づく。まだ、あどけなさの残る少女の顔をしながら

「大丈夫ですよ。いつもどおりの時間ですから」

 そう言って、彼女は笑った。


 僕はその不思議な二面性に魅力を感じずには要られなかった。彼女の名前はフジサワナツミと言う。これから一年間、先輩として、神職の仕事と日々の生活を共にする人だ。

 僕はこの神社で、しっかりと勤め上げる事が出来るだろうか。そんな不安は、開いた扉の先にある、爽やかな秋の朝日の光が打ち消してくれた。新鮮な空気を吸い、新たな生活の第一歩を僕は、しっかりと刻んだ。


 緋ノ森神社の表には、二つの鳥居がある。最初の正面の鳥居をくぐると、石畳の階段が存在する。段差は二十段で、そこを登ると、二つ目の大鳥居があった。どちらも緋色に塗られていた。

 そこから先は参道が続いていた。道の左手には、生活の拠点でもある社務所が、右手には手水舎とご神木がある。そして、一番奥には、これまた緋色に輝く社殿が、堂々とそびえ建っていた。


「これから境内を掃除しますので、まずは見ていてください」

 ナツミさんは本殿の前で言うと、手にした竹ぼうきで、参道を掃いていく。彼女は一般の神職の方が着る白い衣装ではない。

 ナツミさんの服は燃え上がる太陽のような黄みがかった赤だった。大空のような浅葱色の袴が、それを強調させる。建物と同色の衣服は、彼女がこの神社と一体になっている象徴のようだった。


 ナツミさんがある程度の距離を掃い終え、僕と交代する。掃除は小学生の頃から習うので出来て当たり前だと思っていた。ところが彼女から

「ちょっと待って、そうだねぇ、少し力を抜いてぇ」

 彼女は悩ましそうに声を掛け、僕を後ろから包み込み、手取り足取り教えるはめになった。こんな、簡単な事でつまづくようではいけない。だが、僕のそんな杞憂を見透かすかのように、声がかけられる。

「掃除は神社の基本だからね。私も沢山、指導されたよ」

 まるで心を読まれているかのようで驚いたが、彼女の優しい声に励まされ、変にいじけたりする必要は無くなった。忠告を守りながら一生懸命取り組むと、いつの間にか、鳥居の前まで来ていた。


 次に、社殿の前に移動し、その周りを時計回りに掃除する。途中、裏口にたどり着くと、小さな鳥居があるのを発見した。鳥居の向こう側に原っぱがあり、小型のトラックが停められていた。

 さらに、奥に目を向けると緩やかな坂道がある。どうやら、出入り口は二つあるようだ。野辺に咲く彼岸花は、血のような濃い赤をしていて、おぞましい気分になった。

 一周し終えると、僕の体はくたくたになっていた。普段、体を動かしていないこともあり、しっかり、気を使いながら作業するのは大変であることを再認識させられた。

「お疲れ様です。次からは一人でも大丈夫ですね」

 ナツミさんの明るい口調に、僕は少し安堵した。


 神主の朝は忙しかった。今度は本殿の神様に一日の平和を祈らなければならない。一旦、社務所に戻り、お酒や野菜などのお供え物をもって、社殿へと僕らは向かう。お参りの時は、お賽銭だけで済ませるので、建物の中には何があるのか分からない。

 張り詰めた思いで、中に入ったが、普通の広々とした和室があるだけだった。少しだけ拍子抜けしたが、前に金色に輝く大きな両開き式の扉がある。

「一般の人は、特別な日でない限り、お目にかかれないからね」


 ナツミさんが注意しながら、扉を開ける。すると、畳四畳半の小さな部屋。さらに、その奥に物々しい雰囲気の神棚が出現した。神棚の中には、二つの真榊の間に、ひし形に配置された駒があった。駒は、人の頭くらいの大きさで、奥から時計回りに、歩兵、香車、飛車、銀将、玉将、金将、角行、桂馬と書いてある。ちょうど、八方位になっていて、歩兵が北を指している具合だ。


 しかし、神棚の上に駒とは、同じ和の世界であるが、余りにもそぐわない。僕は、駒の前の皿にお供え物をしているナツミさんに思わず聞いてみたくなった。

「どうして、神棚の上に駒が立てられているのですか」

「ここは駒の神様を祀る神社だからだよ。つまり、これは御神体」

 要するに駒が神のようだ。今まで、全く感じた事はなかったが、これから、それを十分すぎるぐらい実感することになる。


 ナツミさんが正座をして、頭を下げたのを見た。後ろから、僕も慌ててそれを真似する。それから、彼女は低い声で「かけまくもかしこき」から始まる、呪文のような長い言葉を唱え始めた。後で聞いたが、大祓詞という祝詞の一種らしい。僕は事務職員だから行わなくていいようで、それを聞いて凄く安心した。


 お祈りを終えると、空はすっかり爽やかな青空に変わっていた。やっと朝食が取れる。ナツミさんが鮭を焼いてくれた。

 調理中は魚が焦げる、香ばしい匂いがしたのだが、食べてみると柔らかく、噛むと旨味が弾け出た。塩加減も絶妙で、ご飯が進む。昨晩のおかずも刺身であったし、海も近いという事から、この土地の魚介類は美味しいのだろう。

 副菜の、小松菜のお浸しは、色が透き通った翡翠色を纏っていた。しゃきしゃきとした食感から、鮮度の良さを感じる事ができた。豆腐の味噌汁は体を温めてくれるし、何より、ご飯がふっくらとしていた。  

 きっとナツミさんの、未来の夫は幸せに違いない。そんな余計な事を考えながら、味わっていたのだが、ナツミさんは物凄い早食いだった。


「ごちそうさまでした。カシワさんはゆっくり食べていてくださいね」

 そう付け加えると、彼女は洗濯機の中から、洗っていた洗濯物を籠に入れ、せわしなく廊下へと向かっていった。昨日は朝が早いからと言って、ろくな会話もせず、夕食と風呂に入って寝ただけだ。すなわち、ナツミさんは初めて、顔を合わせて僕の名前を呼んだことになる。

「カシワさん」苗字に「さん」を付けた呼び方。それは、僕が彼女の仕事上での後輩として、認められた証だ。されど、それは二人が、仕事上だけの関係であることも意味していた。

 例えるなら、手を洗うために触れた、水の温度。これが冷たくなく、ぬるくもない絶妙な温度であったときのような安堵感。それが、少なくとも、その時の感情だった。


 この後、僕らは熊手で、風で落ちた葉っぱをかき集めていた。御神木の杉の木や、神社の外の森から落ちてくる木の葉を袋に入れていく。葉が袋に入るとカサカサと音が鳴った。

 丁度、その作業が終わりかけた時だった。鳥居から腰をかがめた老婆がやってくるのを見た。僕が勤務して初めての参拝客だ。

 老婆は黄土色の羽織を着て、眼鏡を掛けていた。そして、腰を曲げながらゆっくりと近づいてくる。こちらを向いたところで、僕は挨拶をした。すると、彼女は何かを呟き返した。

 しかし、聞きなれない言葉であり、内容が分からない。どうやら、この土地特有の方言のようだ。

 傍にいたナツミさんが、不思議そうな顔をしている僕に気がついた。

「ここらじゃ見かけない顔をしているね。と、言っていましたよ」


 やはり、ここは小さな村社会のようだ。周りは皆、顔なじみなのだ。僕は背筋が寒くなった。悪評を作ってしまったら、街中の人々から後ろ指を指され、生活していくことは出来ないだろう。

「元気を出してください。誠実につきあってれば、周りも認めてくれますから」

 取り繕う彼女の声、彼女の希望的観測を肯定するため、僕は前向きな回答を頭の中で探す。

「が、頑張ります」

 今の僕に出来る、精一杯の答えだった。


 外の掃除を終え、事務作業に移る。社務所の廊下の東側、つまり、参道側は受付口になっていた。そこから僕らが、お守りを授与したり、御朱印を書いたりする。要するに参拝客の対応を対応に当たる場所だ。

 だが、その肝心の参拝客はほとんどやってこない。なぜなら、最寄りの駅から遠く、徒歩では一時間近くかかる。そのうえ、その駅の付近にも、神社があるため、そこに向かう人も多いという。

 僕はナツミさんから、受付で取り扱う縁起物を、紹介してもらった。その中で一つだけ、普通の神社では見られないものがあった。それはおみくじだったが、駒の形になっていた。

 開けてみると、中には図が描かれていて、升目と、不規則に配置されている駒の文字。そして、右上には持ち駒と書いてあり、その下にまた、駒の文字が書かれていた。


 僕のかすかな記憶が蘇る。これは詰将棋だ。将棋には、次に王を取りにいきますよ、という「王手」がある。これをかけられた側は、玉を逃がしたり、王手をかけた駒を取ったり、何らかの形で王手を解除しなければいけない。

 だが、玉側が何を指しても、取られてしまう形になる場合がある。これを詰みと言い、将棋の勝敗条件になっている。そして、詰将棋は正解の王手を指し続ければ、どんな対応でも必ず詰ますことが出来、その手順を探し当てる遊びだ。

 戦略性を必要とする通常の将棋とは違って、駒の動かし方と禁じ手。それから、駒を敵陣に侵入、または、敵陣から動いたときに一度だけ駒を裏返せる「成る」。この三つの決まりを知っていれば、誰でも簡単に挑戦できる。


「カシワさんは、これが何かご存じでしょうか」

 ナツミさんの方を向くと、彼女はいたずらを仕掛ける前の子供のような顔をしていた。

「ええ、詰将棋ですよね。昔、お祖父さんと二人で遊びました」

「本当ですか。じゃあ、これを解いてみてほしいです」


挿絵(By みてみん)


 図には、一番奥の右隅に玉が、その二つ手前に、攻方の歩が置いてある。攻め方の持ち駒に金が一枚。そして、他は全て、玉方の持ち駒という具合だ。

 簡単だ。歩と玉の間に金を打てばいい。玉の後ろに升目が無いから、玉は前方か横にしか逃げられない。しかし、全てが金の動ける範囲で、玉を取られてしまう。また、金を玉で取りに行くと、後ろの歩で玉を取り返すことが出来る。文字通り、何を指しても玉が取られてしまう、詰みの完成だ。


「大正解」

 ナツミさんは歓びの声を上げた。けれども、僕には、一つ疑問があった。

「それで、このおみくじなんですけど、何か運勢とか分かるのですか」

「そうだね、あっ、ちょうどいいところに」

 鳥居の向こう側から、先程と似たような、羽織を着た老婆が石畳を歩いていた。前の参拝者と違うところは、羽織の色が青であるところと、裸眼であることぐらいだろうか。ともかく、その老婆は社務所の受付へやってくると、百円玉を題の上に置き、

「探し物が無くて困っているのじゃ」と言う。

 ナツミさんは手際よく、おみくじ箱を取りやすい位置に掲げると、老婆は一つ抜いて、おみくじを開いた。

「カシワさんも挑戦してみて下さい」


*詰将棋1*


 僕は老婆と一緒に図を見る。敵陣に攻め方の飛車と角がいた。この二つの駒は大駒と言って、四方向にどこまでも進める。さらに「成る」と、金に変わる他の小駒と違い、動けない方向に一マスずつ動ける範囲が追加され、玉よりも強い駒となる。まさに俺つええ。どこかの小説で見た主人公のようだ。そして、持ち駒には金が一枚あり、この三枚で詰ますようだ。

 対して、玉型は、玉の逃げる範囲は広いが、守りの駒は働きそうに無い印象だ。


「分かりました」

 僕は、正解を示すため、手順を説明する。まず、飛車を後ろに一つ動かし、成って飛車を龍にする。後ろに逃げれば龍の横利きで金を打って詰み。

 だから、玉は角を取りながら逃げるしかないが、ここで金を5三の地点に打つ。龍に成った事で斜めにも一マス動けるので、玉で金を取り返す事が出来ない。僕はここまで読んでいた。だが、不思議な事に老婆は不敵な笑みを浮かべつぶやく。

「銀で金を取る事が出来るのじゃが」

 なんと、5三の地点の金は銀で取り返すことができた。そっぽにいた銀が働いたのだ。


「分かったのじゃ」

 老婆は僕の動かした場所とは別の位置で飛車を成った。

「これは玉で取られてしまいませんか」

 意地になって言い返した僕に対し、老婆はゆうゆうと玉の前に金打ち。角の利きで詰んでしまっている。角を取れば今度は尻に金を打って詰むようだ。

「金の下っていうことは財布の下じゃ」

 財布の下から見つけ出したのは手紙だった。

「孫が書いてくれたのじゃ」

 老婆はほっこりした表情を見せながら、お参りをして、帰っていった。


 この後、僕らは昼食を取り、午後は受付をしながら、これからの一年間の仕事の説明を聞いた。そして、朝拝と同じように、夕拝を行い、一日は終わった。

 夕拝でナツミさんが枕詞を唱えている間、僕は詰将棋のおみくじの事を振り返った。あれは不思議な出来事だったと振り返る。おそらく、今後の生活で幾度と見る事になるに違いない。直感的にそう思った。


 ここに来てから十日が経った。秋は深まり、受付の近くでも、蜻蛉が空中で止まったり、前に進む姿を見る事が出来た。あれから、参拝客はたびたび訪れたが、社殿でお参りをするばかりで、受付で対応することはなかった。


 僕は受付にいる間、詰将棋の本を読んでいた。実は、受付の奥に隠し扉ならぬ、隠し本棚があった。ナツミさんのお気に入りの詰将棋本が所狭しと、並んでいた。おみくじで詰将棋が出るので、と彼女からも読むことを推奨されていた。

 僕はそこから三手詰め限定の本など、簡単そうなものを取り出す。参拝客が来ない日は退屈であったが、詰将棋に耽れば時間は簡単に過ぎていった。

 

 一方、ナツミさんはせっせと働いていた。朝拝が終わり、朝ごはんを食べ、家事を終えると裏のトラック乗って、どこかへと飛んでいく。

 その先は、農家の地主だったり、漁師や街の偉い人だったり、さまざまなようだ。ナツミさんは、そこで祈祷を行ったり、舞を舞ったりするようだ。帰ってきてからも、家事を行ったりしていて、僕はいつ彼女が休んでいるのだろうかと思っていた。

 

 僕もナツミさんも、週に一回の休みがある。僕は日曜日で、彼女は水曜日。今日がちょうど、そうだった。ナツミさんは僕が受付にいる間、黙って、詰将棋の本を読んでいた。時折、こちらに目をやると、にこりと笑い、また、詰将棋を解いていく。しかし、そんな時間は片時でしかなかった。

 彼女は、今日も百貨店へ買い出しに出かけなくてはならなかった。僕は、この状況に、罪悪感を持ち始めていた。彼女が忙しくしている間、僕はのうのうと本を読んで過ごしている。彼女と年一つしか違わないのに。

 だから、ぼくは今日の夜、ナツミさんにあることを申し出ようと、密かに決心していた。


 夕食を終え、お皿を台所の流し場へと持っていく。いつもなら、お風呂へと向かう僕であったが、この日は違っていた。汚れが付着した皿を、洗い桶に漬け込み、皿洗いの準備をするナツミさんに、僕は切り出す。

「あの、その、皿洗い、なんですけど」

 ああ、どうしていつも、こう口籠もってしまうのだろうか。

「今日から僕に、やらせてくれませんか」

 ナツミさんは、きょとんとしていた。それから微笑み、爽やかにこう返す。

「心配してくれてありがとう。でも気を使わなくても大丈夫ですよ。だって、カシワさんが来ていただいたおかげで、私、週に一回も休めるから」

 

 こういった返答は想定済みだった。彼女は僕がいることで家事の負担が倍になった事に対して、少しも嫌な顔をしない。下にいる人間が苦労して生活することが無いよう、全ての責任と苦労を自分で引き受けてしまう、ダムのような人だった。

 けれど、僕は引き下がらない。なるべく、厚かましくならないよう、言葉に気を付けて喋べる。

「僕、ずっとフジサワさんを見て思います。なんでもこなして凄い人だなって、だから、うーん、その僕も、近づけるよう、挑戦したいです」

 ナツミさんは、少し頬を赤く染めた。

「そんなたいした事じゃないですよ。でも、そう言って下さるなら、お願いしちゃおうかな」

「はい」

「ありがとうございます。カシワさんのような人が事務員になってくださって、私、本当に嬉しいです」

 彼女は僕の目の前でにっこりと笑うと、干していた洗濯物を畳むため、部屋に向かった。


 僕は皿洗いをしながら、ナツミさんの最後に言った言葉を、心の中で反響させていた。なんて健気な人なのだろう。そして、僕は白い皿を見ながら思い出していた。

 真っ白な芙蓉のような美しい彼女の、眩しいばかりの笑顔を。あれは、勤務時に見せる、機嫌を取るための微笑ではなかった。心が通い合ったときに見せる、本物の笑顔だった。

 体が熱くなっていくことが、自分でも分かっていた。水道を流れる水が、僕の熱を冷ましてくれたら、どれだけいいだろう。

 涼しげに吹く中秋の風は、この熱のこもった社務所とは無縁に、ただ、通り過ぎていくだけだった。月明りの下では、鈴虫達が長月の終わりに、最後の演奏会を開いている。僕にはそれが、今日の出来事を祝福しているように思えてならなかった。



最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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また、感想や誤字脱字など間違いの指摘も受け付けています。

宜しくお願い致します。



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