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あるまちの事件  作者: 大久 永里子
第二章 嵐
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第二章 第1話 黒髪の青年

 翌朝、早番だったマリアンは掃除道具を持って一階の廊下にいた。



 グラナガン邸は大小の応接室だけでも幾つもある様な、大きな邸だった。


 グラナガン家の当主、ムール=ズァ=グラナガンは老齢のため、既に商売のほとんどを息子に任せており、楽隠居状態と言っていい。それでも篤実とくじつな人柄で知られる老当主を慕う客が、未だ毎日の様に邸を訪れていた。


 来客が通る様な廊下や部屋は、朝の早い時間に掃除しておかなければならなかった。




 あの幼い男の子の母親は見つかっただろうか。



 ロウジーも今日の夜にはこの邸に戻って来なければならない。


 夕飯は近所の人が世話してくれるとは言っていたが、ルイの食事や、風呂や、歯磨きや―――――――――――――――彼は、ちゃんとやれただろうか。





「足をどうかしましたか?」




 突然声を掛けられ、マリアンは驚いて振り返った。


 相手が誰だか、瞬時には思い出せなかった。


 漆黒の髪と瞳に、整った顔立ちは印象に残ってはいたのだが、彼が執事服を着ていなければ、誰であったか思い出すのに、かなり時間を要したかもしれない。


 ここに来た最初の日に執事室で挨拶を交わした青年―――――――――――――なにせその青年の顔を見たのは、その日以来だったから。



  名前はなんだったかしら。



 マリアンは慌てて記憶の中を捜した。


 それ程()を置かずに、記憶を探り当てられた。

 自分がその名を覚えていたことにほっとしながら、彼女は青年に挨拶した。


「ファゼル…………様。」


「ファゼルでいいですよ。」


 青年はやや照れた様にそう言った。



 確か彼はマリアンとロウジーより二週間程早くからここに勤め出していて、それから研修だか訓練だかに行ったとかで、ずっと邸を不在にしていたのだ。

 時折夜遅くに邸に戻って来ていると言う噂は聞いていたが、マリアンはその日以来、この「執事見習い」の青年の姿を見たことはなかった。


 それぞれの寸法に合わせて仕立てられている筈の執事の制服は真新しいままで、まだ彼に馴染んでいなかった。



昨日きのう転んでしまって…」

 新人女中はちょっと躊躇ためらいながら、質問に応えた。


 見てすぐに分かる程、歩き方がおかしかっただろうか。


 自分でも確かにかなりの痛みを感じていた。

 一時間以上の帰り道を、無理して歩いて帰ったのがいけなかった。

 でも辻馬車は高くて、昨日きのうのマリアンの所持金では、まかなえなかった。



「診てもいいですか。―――――軽い怪我なら診られますので。」

 黒髪の青年が、静かな声でそう言った。



 グラナガンの様な大きな邸になると、お金も物も、家の中だけで小さな会社並みの規模で動いている。それらを取り仕切り、社交界にも精通していなければならない執事という仕事は、相当有能でなければ出来ない。


 優秀な上に、そんな特技まであるのか、とちょっと驚きながら、マリアンはその申し出を有り難く受けた。


 怪我の程度を見極めるために、他人の意見を聞きたいと思うくらいに、左足の腫れは酷くなって来ていた。




 近くの応接室に入り、促されてマリアンは、ソファに腰掛けた。


 上質なソファというものは、こんなに座り心地がいいものなのか。

 いつも見ているだけだったソファに初めて腰掛けて、経験したことがない様な感触に、少し驚く。



 ふんわりとした感覚に包まれながら、左足の靴と靴下を脱いだ。


 すると足首がなくなったと思う程、甲が赤く腫れ上がっていた。


「よく靴が履けましたね。」

 マリアンの前に屈んでその足を見たファゼルが、ちょっと驚いた顔をした。


 自分でもかなり無理をしたと思う。


 グラナガンの女中服は靴と靴下まで含まれていて、焦げ茶色の紐靴は、足首まで覆う形をしていた。



 黒髪の青年は、微かに眉をしかめた。


 大きなお邸にはどこでも、住み込みではないにしてもお抱えの医師がいて、主一家を診察に来ている際や、急を要する病気や怪我の時には、使用人も診て貰えることになっている。だがこの足の腫れが、「急を要する」と言えるかは微妙だった。



「ちょっと待っていて下さい。」と言って立ち上がり、部屋を出て行ったファゼルは、しばらくして蓋に浮彫りが施された木箱を持って帰って来た。

 箱の立派さにマリアンは戸惑ったが、それは薬箱だった。


 黒髪の青年は応接机の上に箱を置くと、留め金を外して蓋を開け、中から薬の瓶や包帯を取り出した。


「炎症を鎮める薬です。」

と言って、執事見習いの青年は、マリアンの足に緑色の軟膏を塗ってくれ、そこに小さな布を当てると、本職の医師並の巧みさで、その上に包帯を巻いてくれた。


 綺麗に踵を包んでくれて、上手じょうずさにびっくりした。


 手当てが終わると、ファゼルは手際よく使った道具を箱に戻して行った。



 実家の兄やロウジーと、ファゼルとの差はどう生まれたのかと思ってしまう。



「冷やした方がいいと思います。仕事も二、三日休んだ方がいいと思いますよ。」


 マリアンがお礼を言うと、執事見習いの青年は、静かな波の様な声でそう応じた。



  新人の身で、欠勤なんて………



 女中頭のジゼルになんと思われるだろうと思ったが、確かにこの足では満足に働けない。



「…あの、休んだ場合のお給金って…」

「…欠勤した分は、減ると思います。」



  そうよね。



 ちょっとばかり落ち込んでしまった。


 初めて実家を離れて、私用の洗剤類とか文具とか、細々(こまごま)とした物でそれなりに買い揃えたい物があったから、二カ月続けて給金が満額貰えないのは、痛かった。



  でも――――――――――――――――――――



 数日休めるのなら、あの子の面倒を見てあげられる、と気が付いた。



 ファゼルが気遣わしげにこちらを見ている。


 この際だ、と思う。


 とは言え、不安だった。


「……お休みしても、大丈夫でしょうか。」

「わたしからジゼル様に申し上げておきます――――――――――大丈夫だと思いますよ。」



 微笑んで言った青年に、マリアンはびっくりした。



 執事見習いの青年の声や仕草には兎に角落ち着きが合って、彼が大丈夫だと言えば、本当に全て大丈夫そうに思えたのだ。





◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 外泊許可を得るのに、マリアンは結局女中頭に会わなければならなかった。



 グラナガン家の女中頭ジゼルは、総白髪でややふくよかな体が堂々としていて、表情は厳しく、ちょっと迫力がある。



 女中頭の部屋を訪ねたマリアンは、おそるおそる「迷子を保護している」事情を上司に話した。

 だが話が面倒になりそうな気がして、柄の悪い男達のことについては告げなかった。



 仕事を休む様な怪我をしているのに外泊許可を求めるなんて、いい顔はされないかもしれない。


 マリアンの欠勤については既に了承していたらしいジゼルは、書斎机の向こうで、少しの間難しい顔をしていた。



 マリアンは緊張して女中頭の言葉を待った。



 数秒のあと、意外にもあっさりと、女中頭は頷いてくれた。


「分かりました。」


そしてジゼルは付け加えた。


「ロウジーはフロウラング(ここ)が地元なので、助けてくれる知人ひともいると思いますが………。手に余る様になった時は、知らせる様に。」



 女中頭のいかめしいの中に、温かい色が見えた。



 初めて実家を遠く離れて、どこか張り詰め続けていた娘は、この時、心がふわりと柔らかくなるのを感じた。




 自分は勤め先に恵まれたのかもしれない。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 とは言え、この足であそこまで戻るのは、なかなかきつい。


 私服に着替え、二、三日宿泊出来るだけの荷物を持って、使用人の通用口までやって来たマリアンは、出口の前で立ち止まった。



 この期に及んで、躊躇ためらってしまっている。



 ファゼルが塗ってくれた薬が効いていて、足はかなり楽にはなっている。



  せっかく改善してるのに、台無しにしてしまうかしら。



 でも、狂暴そうな男達に追われている母子おやこにどんな事情があるのかは分からないけれど、最初にルイを助けてしまった自分には、ルイの世話をする責任があると思う。ロウジーに押し付けてはおけなかった。



「マリアン?」



 声を掛けられて、どきりとしてマリアンは振り返った。


 何か、悪さをしている所を見つかった子供みたいな気持ちになった。



 黒髪の執事見習いが、目を丸々と見開いてマリアンを見ていた。



「どこか、行かれるんですか…?」

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